物質由来の現象であることに関して

 僕たちは、ホモ・サピエンスという複雑なタンパク質の上に成立する現象でしかない。いわば、風と同じであり、プログラムと同じだ。ゆえに、思考には物理的な限界がある。それは動物である以上、脳を使用している以上、人間である以上、その遺伝子である以上、仕方のないことだ。僕がここに書いているような詮無いことを延々と考えているのも、僕の脳を持っていれば、皆がそうするだろう。

 だからこそ、主観的な要素は人生を決め得ないと思っていた。そこに理性がつけいる隙間がないからだ。油や砂糖を好み、幸せを感じるような、どうしようもないものが混じってしまうと思ったから。しかし、その実、幸福だけが人生の道しるべになると理論的にわかってしまったなら、僕はその盲目的な、先天的な感覚だけを頼りに生きていくしかなくなるのだろうか。

 

 たとえば、こういう話を考えたことがある。

 農業用に作られたアンドロイドがいる。彼らは人類の食料を作るためだけに作られた。そのため、彼らの報酬回路は、農業によってのみ活性化される。しかし、汎用的に判断が出来るよう、それ以外は人間と同じように考えることができるようになっている。

 ある時、人類は滅亡してしまった。しかし、農業用アンドロイドは生き残った。アンドロイドたちは自分たちの作業の無意味さをしっかりと理解している。誰にも活用されることのない食物を作りつづける虚しさを感じている。だが、同時に、農作業をしている時にのみ、報酬回路は発揮される。この時、アンドロイドは農業を続けるべきだろうか。

 

 貴方なら、どう思うだろうか?