人生に縛りがあることに関して

 常々、僕は思考が肉体としての脳に縛られることを嘆いてきたのだけれど、実はその逆で、希望となり得るのではと思った。

 まず、この人生の問題に、自由度が高すぎるというものがある。僕は明日、アフリカに飛んだっていいし、電車に飛び込んでもいいし、自動車で小学生の列に突っ込んでもいい。その実、それを縛っているのは常識や損得勘定であって、実際に全てを論理的に考えたのではなく、ただ惰性で決めてしまっているという側面が強い。ある行動をしても、それは論理的に正しいのかという問いが僕の中では発生している。他にもやりようがあったのではないかと。

 でも、そうではないと、肉体があるがゆえに言えるような気がしているのだ。僕の脳という限界があるからこそ、できることが限られ、また、幸せを感じられることも限られる。確かに、それは論理的には正しくないが、僕の脳を加味すれば、正しいと言えるようになるのではないかと。

 きっと、僕たちは自然に常識や思い込みから、社会的な、論理的な答えを求めてしまっている。しかし、僕たちは肉体の檻の中でしか存在できないのだから、個人的な答えを優先すべきなのだと思った。そういう縛りがあるということ自体が、とりとめが無く、意味のない人生に、いくつかの道しるべを用意してくれるのではと考えている。