なんでそんなリスキーな選択肢を取るの?

 どうしてみんな、社会的な何かや物質的な何か、あるいは未来に奉仕して生きていくことができるのか。僕は常々不思議に思ってしまうんですよ。

 ここを読んでいる人なら、ほとんど「SWAN SONG」はやっているので、言うまでもないのだけれど、普通の人って子供とか親とか妻とかのために我慢して労働して、みたいなことをしているじゃないですか。でも、災害とか事故とかで一瞬で死んでしまうことって普通にありますよね。で、その瞬間、今までの努力や苦しみは無意味になってしまう。どうして、そういう想定に耐えられているのかが不思議でしょうがないんですよ。

 社会的な地位や社会に対する貢献を誇りに生きている人も意味がわからないですね。だって、何か重大な事故の加害者とかになってしまえば、一瞬で地位は地に落ちるんですよ。家族や友人からも否定されて、全国からバッシングされて、死ぬ。その時、慰めになるようなものがあるとは思えないんですよね。実際のインタビューとか見ている限りでは、ですけど。

 つまりね、僕が言いたいことは、自分の人生はたった一つで主観的であるがゆえに、確率が意味を持たないってことなんです。確かに、大事な人が突発的に死ぬ確率は低いでしょう。何か間違いを犯して、地位が台無しになることも少ないでしょう。宝くじに当たる可能性は天文学的な数字でしょう。でも、それに当たってしまったら。たった一つしかない人生はどうしようもなく変質してしまって、今までの全てが否定されることなんてザラにありますよね。そうなってしまった時に、貴方は後悔することしか出来ないんですよ。何も出来ない。ただ、たった一つであまりにも貴重な時間や気力を費やしてしまったものが消えていくのをみることしか出来ない。僕にとって、未来とか老後とかのためにと貯金している人とか、全財産をカジノでベットしているようにしか見えないんです。それが失敗したと知った時、あまりにも救いがなさ過ぎる。今までが幸せならそれでいいかもしれない。好き勝手生きてきた結果として、貧する今があるのなら、過去が幸せだったことは変わらない。でも、未来の何かのために今を犠牲にしてきた過去があるのなら。未来に意味がないと知ってしまった時、過去は永遠に救済できなくなってしまう。

 だから僕は、過去から連なる今に誇りを持っていたり、輝かしい未来のために投資している人々を、狂人を見るような目で見てしまうんです。わかり合えない、と。しかし、社会はそういう人を前提にしているわけですから、どうしても齟齬が生じてしまうんですね。向こうが前提としているものに、こちらが当てはまらないのだから、最初からずれてしまって、進めば進むほど、差は大きくなるばかり。どうしようもないですよ、この差は。

 本当に不思議でしょうがないことばかりが溢れていますね、この社会は。