漁師のコピペに関して

 メキシコの漁師とMBAの有名なコピペがあると思う。知っている人がほとんどだと思うので、特に引用はしないが、簡単にまとめると以下のようになる。

 田舎暮らしの漁師は、気ままに仕事をして、気ままに生活している。それを見たMBAの都会人はもっと努力を重ねて、報酬を上げ、最終的には大金持ちになって引退すればいいと説く。引退後はなにをするのかと問われたMBAが言う暮らし、それは今の漁師の暮らしそのものだ、というオチである。

 これには、大きく二つの見方があると思っており、実際にそれがよく検索に引っかかる。

 まずは、肯定的な解釈で、つまり、MBAなんかは無駄なことをしているというものだ。人間の欲求には限りがあって、大金を稼ぐ程頑張っても、結局は家族や休息なんかを求めることしかできないから、そこまでして働くのは意味がないという考え。

 次は、少し否定的な解釈。大金持ちになって引退してからと、漁師のままその生活をするのでは違いがあり、前者の方が価値があるとする考えだ。色々と成長をしたから、地位があるという論調もあれば、前者は余裕があるが、後者は不漁などで今の生活が送れなくなってしまうという所に着目している意見もある。

 

 僕は前者を基調とした考えを持つ。もちろん、地位や金を持つことに価値を感じる脳を持っている人もいるのだろうけれど、多くの人はそれに重きを置いていないと感じるので、そんな人間にまでビジネスを押しつけるMBAはナンセンスだとは思う。人間が出来ることには、感じられることには、考えられることには、限界があり、個人差があり、先天性の違いがある。

 後者みたいなことを言っている人は、ちょっと思考が足らないなぁとは思う。もちろん、立場に違いはあるのだけれど、それが何だというのだ。社会貢献なんか言い出す奴はナンセンスにしても、努力するための言い訳を考えている人が多い。そもそも、不安定性が完全にマイナスという捉え方は考えが足りない。

 それこそ、よく思うのだけれど、本当に余裕がある人の農作業や漁業は、それこそ遊びなのであって、本職の人ほどの喜びが得られない可能性がある。結局、そういった田舎暮らしという情報だけを得ていて、そのフレームに乗せられているだけで、本当の感覚を得られていない、可哀想な人々と捉えることができるのではないか。実際、それを生業にしている人の豊作と、遊びにしている人の豊作では、その実体験が大きく異なることは容易に想像が出来る。

 

 どうして皆、そういう表面的なことばかりに執着してしまうのだろう。本当に価値のあることを知りたいという欲求はないのだろうか。