「フリー・ガイ」の感想

 「フリー・ガイ」、面白かったし、細かいところにテクニックを感じるのだけれど、全体的に、言われているほどではないなー(具体的に言うと、Rottenで73%ぐらいの映画という体感なのに、83%ぐらいあるのでその差)と感じていて、どうしてかということを考えていたのだけれど、主人公のテーマと敵のテーマとの衝突が弱いんですよね。

 主人公は、モブ(と日本語では訳されているけれど、実際にはNPCで、テーマとしてもNPCの方がニュアンスとして近い)なんだけれど、そのテーマは、与えられた役割、ルーチンということを守るだけで良いのか、とか、人工知能は人間のような権利が与えられるべきなのか、というところになると思う。もちろん、後者に関してはそれだけで映画1本になるような重い話なので、さらっと流しているし、それは良いのだけれど、前者があまり対比になっていない気がする。

 途中で、コーヒーじゃなくて、カップチーノを頼もうとする下りがあるけれど、そこで他のNPCが無駄に反応するのも良くわからないし、全体としてテーマになっていない。そもそも、他のNPCNPCであることを自覚していないのだから、役割を持ってルーチンで動いていることすらわからないのだ。だから、そもそも、葛藤が生まれていない。なのに、こういうシーンがある。「トゥルーマンショー」じゃないんだから。役割と変化、というのがあまり対比や葛藤になっていない。自由になればいいじゃん。簡単だし。はい、自由になりました。ちょっと怖くて自由になれない人もいます。終わり。どうして、ちょっと怖いの? その辺の掘り下げが必要では?

 あと、作品における敵、というのは、タイカであって、彼は拝金主義者であり、そのためなら特許も無視するし、フリー・シティを破壊もする、ということなんだけれど、そのイデオロギーと対立しているのは、ヒロインや、サブ主人公の彼なのであって、ガイではないんだよね。

 だから、ガイはタイカと直接対峙することはないし、戦うのはデュードで、中途半端に創られた彼を役割から解放してあげることで救っている。

 でも、作品としての主人公はガイであって、宿敵はタイカなので、作品のテーマとしては、本来なら戦っていないといけないんだよ。対立項でなくてはならない。ガイが戦うべき相手と直接(物理的じゃなくて概念として)戦っていないし、その方法を持たない、と言えばわかりやすいか。あるいは、イデオロギー的な対立がないと言ってもよい。

 つまり、ガイに対する障害が少なすぎる。もちろん、創られた存在なんだ、というシークエンスはあるのだけれど、そこが死の予感になっているし、後の復活に繋がり、楽園に導く救世主という形にはなっているのだけれど、そこに対する葛藤がない。君と僕が創られたものならば、この瞬間も創られたものだろう。実際に、エンディングにおいて、彼自身はある意味ではラブレターのようなもので、この感情はサブ主人公のそれである、という話をしてしまっている。テーマである主体性を部分的に否定してしまっているのだ。それも、唐突に。

 だから、全体として、対比、相対が少なくて、あっさりとしたものになってしまっている。

 簡単に言えば、この話は、別にゲームのNPCが主人公でなくても成立してしまう、ということだ。ガイに必然性はない。とは言え、そういう作品ってめっちゃ難しいので、特許争いにおけるメタ的な戦いとかパロディとか持ち出して、わかりやすくて楽しい映画にしているのもわかるし、エンディングのラブレターのようなもの、というのも、それ自体はこの映画のストーリーをまとめるための上手いテクニックではあるんだよな。AIの話をごちゃごちゃするような映画ではないし。うーん、NPCを前面に押し出していたから、そこがテーマと関係ないのがもやっとしているのかもしれん。