時代の移り変わり

 「僕のヒーローアカデミア」のアニメを観た。それで、前々から考えていた(少年ジャンプ)漫画の新世代と旧世代に対する考えがちょっとまとまってきたので、書いておこうと思った。

 

 この定義は僕が勝手にしているものだけれど、旧世代というのは、「ワンピース」「NARUTO」「BLEACH」を主体とした、ひと昔前のジャンプ漫画を指している。僕が本当に少年だった頃に流行っていた作品たちだ。現在も残っているのは、「ワンピース」ぐらいだと思う。時代が終わってしまった作品ともいえる。これらは以下のような特徴を持っていると思う。

・主人公やヒロインに強い出自があり、特に主人公の血筋に物語が集中している

 「ワンピース」のルフィ、「NARUTO」のナルト、「BLEACH」の黒崎一護……皆、揶揄されることもあるほど、設定が盛りだくさんだ。

・世界が危機に陥ることはあれど、一般市民までその危機に直面することは稀

 海賊、忍者、死神たちが被害を被ることは多いが、一般人が唐突に理不尽な被害を負っているような描写は少ない。

・精神的な師匠、憧れの存在がいる

 シャンクス、火影など。技術の伝達だけでなく、道を示す存在がおり、主人公はそれに憧れていることが多い。

 これらの特徴から、主人公が主人公然とした作品が多く、一本道のような印象を抱かせる作品が多い。特別な人たちが、特別な敵と、一般人を守るために戦うような作品たちとも言えるかもしれない。

 

 新世代は現在連載中で、ここ5年ぐらいに始まった作品たちだ。「チェンソーマン」「約束のネバーランド」「呪術廻戦」「Dr.STONE」「アクタージュ」「鬼滅の刃」などなど。これは現在の黄金期を支える、トップから中堅(と言ってもその面白さは別時期のトップレベルだけれど)のラインナップだ。以下の特徴があると僕は思っている。

・主人公が一般人や何かの技能を持っているだけで、設定が周辺人物に分散している

 単純に何かの能力に優れていたり、事件に巻き込まれただけだったりする。血筋のようなものはないことが多く、特殊な事情をライバルの方に持たせて、対比を産むといった手法がとられることもある。もちろん、連載中なので、途中で設定が生え……明かされることもあるだろうが。

・一般的に過酷な社会になっており、特別なことがなくとも人が死に得る

 脅威があるが、一般人は主人公たちやその組織に守られ、一般生活が送れているという作品が以前より明らかに少なく、一般人たちは暴力に虐げられ、理不尽に死ぬこともあるが、それを悲劇だと特筆して描かれることは少ない。

・道が定まっておらず、師匠がいない

 正解とも言えるルートがなく、どこに行けばいいのかもわからない。憧れの存在はおらず、自身で道を切り開く必要がある。先達はいても、技術の伝播だけが焦点になることも多い。

 これらの特徴から、群集劇になりやすいというのは、一つの特徴だと思う。設定が主人公に集中していないことによって、個々に分散された設定で物語を動かしやすくなり、群集劇になりやすい。正解がないことからも、多方向に拡散していく話になりやすいという点もある。もちろん、シナリオの難度は格段に上がる。

 

 簡単にだが、以上のような特徴があると思っている。もちろん、中間的な作品はある。というか、全体的にグラデーションがあって、そのどこに属しているかという話になるだろう。むしろ、多次元ベクトルともいえるもので、グラデーションというのは語弊があるかもしれない。しかし、全体的な傾向はこのようになっていると僕は考える。こう考えてみると、「僕のヒーローアカデミア」はかなり旧世代によっていると思うし、実際に古くから連載している。「呪術廻戦」なんかは新しいけれど、旧世代的な物語の構造をしていると思う。「アクタージュ」はバトルものではないが、バトルものに近い構図を意図的に取り入れ、少年漫画的にしているのが面白い。「チェンソーマン」は新世代の筆頭として特別すべき出来になっているだろう。しかし、これは藤本タツキの才能によるものが大きいとは感じている。

 また、上記にも少し書いたが、シナリオがとても込み入っていて、しかも、それが好まれるという時代になっているとも思う。だから、絵柄が多少荒くとも話が面白い作品はそれだけで評価される。ONEさんや諫山創さんを見れば明らかなように。そのため、ジャンプでは原作をつけることが多くなっていると感じる。新世代の作品は、原作付きか、明らかにシナリオの才能がある作者によって創られていることが多い。

 総じて、物語の時代になっていると思う。エンターテイメントのレベルが上がり、要求されるものが高くなっているのだ。この状況は創作者を目指す多くの人々にとって厳しい状況だろうが、突出した何かがあればすぐに浮上することさえある、チャンスのある土壌になっているとも同時に思う。