過去の自分が信用できない

 過去の自分が、今の自分に対して、事実を隠ぺいしていたように感じることがある。例えば、仕事やら趣味やらでエラーを見つけた時、よく考えてみるとそれを前にも確認していたことがあったように感じるのだ。その時は眠かったとか、後回しにしようとか、そんな理由で見なかったことにしたのだと、そんな風に思う時がある。ただ、問題なのは、それが今の僕の被害妄想なのか、本当にそうだったのかわからないことだ。記憶がある。見なかったことにしたという。しかし、それはひどく曖昧なもので、僕が今、作りだしたようにも思える。だから、確証が持てない。

 そう、僕は記憶を信用していないし、記憶がひどく曖昧なのだ。時系列はめちゃくちゃで、事実と想像が混ざっている。いや、厳密に言えば、皆そうなのだろう。ただ、僕はそれを自覚してしまっている。必要以上に。だから、日常生活に支障をきたしている。とっさに思い出す記憶が、本当のものなのか、捏造されたものなのか、それがわからない。わからないままに生きている。これは大きな問題となる。

 多くの人は、過去に起こったことは固定だと思っている。何か一つの出来事があって、それが絶対的であり、記憶のうち、それと矛盾しないものは本物で、矛盾すると偽物というわけだ。しかし、僕は過去に起こったことというのは、未来に起こること、ぐらい曖昧なのではないか、と思っている。

 

 たとえば、僕が今、「あ」か「い」と発音したとする。それは確かに差異がある。音波の形が違うから、周囲に与える影響が異なる。僕の脳も別の反応を示すことだろう。しかし、その差異は他の影響の方が大きくなり、いずれは区別できなくなるのではないかと思う。もし、10万年後から、そのどちらかだったかを推測できるはずがないように。こうなると、過去は確定しない。僕はそう思っている。つまり、多くの作品において、分岐を扱う作品で出てくる図というのは、過去から現代には棒が一本引いてあって、現代から未来へ枝分かれしていくでしょう。そうではなく、現代から過去も枝分かれしているように感じている。つまり、現代を中心とした光速を限度とした変化幅の円錐の頂点を二つ組み合わせたようなもの、ディアボロのような形状をしたものと考えればよいと思う。

 

 それが僕の思う時間感覚であって、それが影響しているのかは知らないけれど、僕は本当に記憶力がない。あるいは、逆なのかも。自分の記憶が本当に信用ならないから、そんな風に思っているのか。しかし、それなりにいろいろと時間論(もちろん、哲学や宗教ではなく、科学のものだけれど)を勉強しても、同じ結論に至るのだが。