ゼロ年代ぐらいに流行った奴とその先に関して

 ストーリー系のエロゲが全盛期を迎えていた時代がある。その頃、オタク文化の中心と言えばエロゲであり、実際、その時期に活躍していたライターさんや絵師さんは未だに業界のトップランナーである。そんな時、僕も例に漏れずエロゲ好きだったのだけれど、どうしてそうだったのかが、「天気の子」を観ることで一部分だけでも明らかになった。

 さんざん言われているように、この時代を通ってきた(というか青春を捧げた?)オタクたちにとって、「天気の子」は懐かしい感じがして、しかし、現代性も取り入れた素晴らしい作品になっていると言える。僕はこういう言い方が好きではないし、そもそもそのジャンルの作品はほとんど好きではないので、あまりその語句を使わないのだけれど、その時代、ゼロ年代の作品はある種のレッテル張りというか、オタク文化を否定したい人と、オタクを踏み台にして自身の賢さを主張したい愚者によって、ある種のカテゴライズをされてしまった。そうやって、定義づけがされると、不思議なことにそんなものはないのに、それに取り憑かれている創作者や消費者が生まれて待った。そうして、発現した亡霊は、主流から外れた今でも現存している。

 少女が不思議な力を持っていて、それが世界を左右するものだという設定も、そう言ったものの一つだ。そうでなくとも、昔からよく使われてきた題材ではあって、神話的な物語の類型の一つでしかないのだが。これらの回答は、大きく分けて二つあった。

 一つは、世界を優先するというもの。一つはヒロインを選ぶというもの。

 ここで重要なのは、後者を選んだ場合、世界が崩壊して終わり、変質して終わり、というものが多かった。あるいは、その先、主人公とヒロインが何とかやっていくことが示唆されたり、描写されたりするが、一般人はほとんど出てこないものが多かったと記憶している。

 「天気の子」はその先を見せてくる。それどころか、この選択肢自体が傲慢な思い込みであると看破するのだ。「この世界の片隅に」でも思ったことなのだが、日常というものはとても強い。全てを飲み込んでしまう。社会の、世界のその力を見せた上で、その選択肢自体が独りよがりだと言及する。しかし、主人公とヒロインはその傲慢な責任を負った上で、大丈夫だというのだ。

 僕は以前、「天気の子」を怪作だと評したが、前言を撤回したい。色々と検討した結果、確かに前作「君の名は。」の方が洗練された脚本と構成で面白さで言ったら、この作品の上を行くだろうが、テーマやその先を見せる能力から言っても、「天気の子」は傑作である。本来あまり関係ない作品に関連を持たせる言い方は好きではないのだが、ここ十年ぐらいで各作品たちがテーマとしてきたところから、回答が数段階進んでしまったのではないか。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」がそれをどうにかするのかと思ったのだけれど、まさか新海誠作品でその先の回答が観られるとは。