エロゲに求めていたものに関して

 「天気の子」を観ることによって、明らかになったことがある。それはどうして僕が一時期、エロゲに入れ込んでいたのかという理由の一つだ。しょうがないじゃん。「天気の子」、PC版がゼロ年代ぐらいに出ていて、全年齢版移植に際して生々しさを消すために凪センパイが追加されたゲームのような話をしているのだもの。ちなみに、ルートは陽奈ルート、夏美ルート、四葉ルートの後にTRUEルートで、今回はTRUEを映画化したもの。陽奈ルート以外では問題が解決するメタファーであった晴天の事実を知った時の驚きはもちろん、初期では雨空だったタイトル画面が、陽奈ルート以外のクリアで晴天になり、TRUEクリアで雨空に戻る演出が秀逸だった(幻覚)。選択や責任というテーマ、キャラクターの配置や物語の構成があの時代まんまで、どうしてもそんな風に思ってしまうんだ。選択肢を幻視するぐらいには。

 もちろん、実際にはクライマックスの後はかなり新しさがあるために、その年代には実現しなかった物語であることは間違いないのだが。もしそれが出来ていれば、今以上に時代に革新をもたらす作品になっていたか、周りに理解されなかったはず……

 そうした経験(幻覚)を経て、気付いたのだ。ああ、僕は歳を取ったけれど、大人になれなかった子供たちに向けた作品を好んでいたのだな、と。エロゲというのは、不思議な媒体である。18歳以上しかプレイ出来ないのに、(ストーリー系のエロゲでは)学園が舞台であることが多く、稚拙な内容もあり、性交渉がほとんど必ず入るという縛りがありながらも、皆はそれが目的でないという。おおよそ、普通の大人がプレイするものではない。そして、子供はプレイできない。なら、誰がプレイしたのか。大人になれなかった子供だ。誰に向けたものだったのか。歳だけは経た子供だ。

 大学一年の時、ようやくリアルで見つけたエロゲオタクの先輩が言っていた。本来なら、エロゲは18歳で卒業するものなんだよ、と。その通りだと思う。でも、それが出来ない人のために用意された物語だとも思う。だから、好きで好きで仕方なかったのだ。

 僕は未だに大人になれていない。自分を殺して、集団を優先し、規則の中で生き、そこに生き甲斐を感じたまま、後の者のために盲目のまま死ねない。優先順位を固定して、その上位に社会や一般の人たちを位置させることが出来ていない。それは、社会から外れてしまったことを指す。社会で生きていくために必要なものを切り捨てず、不要なものを守ろうとしている。でも、僕は大丈夫。本当は大丈夫と思ってはいけないのだろうけれど、大丈夫なんだ。だって、この世界は滅多なことでは変わらないし、変わったとしてもそれに順応する。だから、僕たちは本当に大事なものだけを選べばいい。その一つはエロゲだし、その一つは「天気の子」だ。