大丈夫に関して

 似たような感想を見つけて嬉しくなってしまったので、つい。「天気の子」エロゲ版的な感想書いている人、瀬戸口廉也好きな人多くないですか? 嬉しくなっちゃうな、本当に。

 つまり、これは『大丈夫』という言葉に関しての話です。

 瀬戸口ファンにとって、それは寂しさや悲しさ、虚しさを伴うものだ。言うまでもなく、「キラ☆キラ」のきらり1ルートの大事なシーンでその言葉はこぼれる。僕たちは大丈夫になってしまったのだ。

 「青春のアフター」なんかにも似た流れで出てきていたのだけれど、これは本当に正しい。僕たちは大丈夫になってしまう。本当にめちゃくちゃになってしまっても、人間は大丈夫になってしまうように出来ているし、日常は全てを超越するほどに強い。戦争状態でも日常が保たれていた「この世界の片隅に」を観ればわかるだろう。

 それは一種の忘却であり、諦念であり、順応である。後ろ向きの、この世界に対して、自分に対しての白旗としての『大丈夫』なのだ。ヒロインが、本当に大事な人が死んでも、大丈夫になってしまうのだ。僕はそれが悲しくて虚しくて仕方なかった。なら、この人生でなにが起こっても大丈夫じゃないか。逆に言えば、なにが起こっても変わらないじゃないか。壊れてしまうほどに衝撃を受ければ良かった。でも、主人公は大丈夫になってしまう。

 それに対し、「天気の子」の大丈夫は、前向きの言葉だ。前向きの、責任を背負う、この狂った世界の下でも、君だけがいれば『大丈夫』だという告白だ。僕はそれが嬉しかった。君がいれば、大丈夫。君がいなければ、駄目なんだ。それなら、人生に意味が持たせられる。君のいない世界を否定できる。どちらにしても、世界は大丈夫なんだけれど。

 よく、周りを気にして自分の大事なものを失っている人々を見かける。誰かのために自分を諦めてしまった人を。喪失に対して『大丈夫』になってしまった人を。僕はそういう人に伝えたい。そうじゃないんだと。自分の大事なものこそを、本当に大事にして、守るべきだ。そんな無茶をしても、社会に迷惑がかかるとしても、世界は『大丈夫』なのだから。自分も人生も未来も『大丈夫』なんだから、と。