「MUSICUS!」の問いに関する感想

 「MUSICUS!」の内容について。

 僕は、「MUSICUS!」の根幹における音楽に対する問いには二つの側面があると思っていて。つまり、花井是清の答えと、対馬馨の答えがあり、この作品において馨は両者を追い求めているのだと思っている。

 花井是清の答えを見つけるのが、三日月ルートだ。それは三日月が語り、馨が悟り、記憶上の是清が呟いた答えなのだと思う。彼の遺作である「Calling」の歌詞を見ても、それがわかる。彼は、交流のための手段として音楽を使用していて(というと語弊があるが……伝わるという思いが捨てきれずに、とでも言うべきだろうか)、しかし、そのために孤独になってしまい、あのような結果になってしまった。

 対馬馨の答えを見つけるのが、澄ルートだ。実際、このルートでは(おそらく)病んでしまっている三日月に対する執着もなく、花井是清のこともずいぶんと忘れてしまっている。つまり、花井是清の答えを求めようとしているのではなく、彼は自身を悪魔と自嘲するような状況になってしまっても、自分の答えを見つけようとしているのだ。その問いへと探求はずっと続いていくのかも知れないが、ある種の答えはこのルートの最後に見つけられている。答えそのものというより、その探求の方向性と言った方がいいかもしれないが。澄ルート自体が、対馬馨の言うように、探求の旅となっているのだろう。

 つまり、この作品のテーマとなる問いに答えているのは、この2ルートだと思っており、それぞれが片方だけの答えを見つけることから、表裏のルートであると思っている。作中の多くの人々に指摘されているように、花井是清と対馬馨は似ている。それはストイックに音楽の答えを求めていこうとする姿勢が。苦しみ抜いてまで、音楽に魅了されている姿が。しかし、同時に指摘されるように、この二人は大きく異なる。それは見つけた音楽への答えを見ても明らかだ。ゆえに、その二つを同時に見つけることは出来ないのだろう。花井是清の答えは、三日月を含めたバンドメンバーや観客、サポートの人たちとの交流で見つかるものだし、対馬馨の答えは、狂気的とも言える孤独な探求の先に見つかるものだから。ゆえに、どのルートも正解ではなく、ただ、差があるだけだ。それはまるで現実のようで。だから、全てを満たすようなグランドエンディングは存在せず、選択の違いによる結果だけがある。だからこそ、この作品は、エンターテイメント作品ではなく、万人が認めるものでなく、しかし、刺さる人にとっては、とてつもなく重みのある作品である。

 

 しかし、改めて澄ルートの分だけをプレイしたけれど、花井是清も言っていたように、本来、本当に音楽だけを追及するなら、別に発表しない道もある(ヘンリー・ダーガーみたいに)けれど、どうしても、伝わるかもしれないと思って発表してしまい、それが逆に伝わっていないという実感となって戻ってくるので、やればやるほど孤独になってしまい、自分や音楽の力に絶望するという構造は明確だ。さらに言えば、澄と一緒になり、子供を産むという妄想の際に言っているように、楽しい人生を選ぶのは楽だけれど、それを選ぶのがどう考えても正解なんだけれど、それが正しいのかわからないという話が結構メインにある気もする。それこそ、馨が学校を辞めた時の話と同じ構図で。僕もそれがわからない。僕は対馬馨のように芸術の道に身を捧げているわけでもないし、努力を苦と思わずに無限に続けることが出来ないけれど、何か似たような悩みを持っているように思えてしまう。それが瀬戸口廉也のマジックであって、まやかしであり、これだけ支持を受けている理由なんだろうな。