社会性の消耗

 緊急事態宣言よりわずかに前から、在宅で勤務している。圧倒的に楽だと感じているが、それは仕事中に動画や音楽を再生できることでも、独り言を発せられることでも、好きな飲み物を選べることでもないような気がしていた。そして、今日、その答えに気付いた。社会性を売らなくて済むからだ。

 出社、社内、退社という流れには、それぞれ社会性が必要とされる。常識力、とでも言えばいいだろうか。きちんとルールを守って電車に乗る。人と会えば挨拶をする。会話には反応を返す。優しさと寛容さを持って人に接する。当たり前のことだ。当たり前のことで、幼少の頃から叩き込まれることだが、慣習的で不合理なものも多い。そして、そういうものを、何の負荷もなくやってのける人が多いものを、最低限こなすだけで精一杯の人間もいる。例えば、僕みたいな。人間のふり、というのは言い過ぎだろうが、一般社会人のようなものを演じるのはとても疲れる。眠かったり、不機嫌だったり、体調が悪かったり、そんなことで簡単にボロが出る。だから、準備がいる。心構えが、覚悟がいる。これが大変なのだ。

 もちろん、多大な時間を売っているとか、わずかばかりの技術や労働力を売っているとかいう感覚はあるのだけれど、とても大変で、それゆえに負荷の大部分を占めているのは、この社会性の売却なのだ。だから、僕たちはどんな仕事に就いても自然と消耗してしまう。しかし、テレワークの場合、それは最低限で済む。時間までにPCの前に座っていればいいから、身支度をする必要はない。ふざけんなファックと叫んでも、それを相手は聞いていない。聞き取りにくい会話は、文章として画面に延々と残るから忘れることもない。相槌を打つ必要はなく、最悪の場合、通知に気付きませんでしたと、離席していましたと言えばいい。これが、とても楽なのだ。単純な労働力を売っているだけなので、ドライに取引ができる。純粋に生きるために、娯楽品を手に入れるために、仕事に手を染めているという気持ちになれるのだ。

 やはり、在宅勤務というのは圧倒的に良いものだ。それが明日からデフォルトになるというのだから、その素晴らしさに多くの人が気付くに違いない。こうやって、一区切りがついた後に、社会は変容してくれるだろうか。まあ、どちらでもいい。変容のないものは、すぐに壊れると歴史が証明している。変わらないのならば、早い段階で壊れるだろうし、変わるのならば、わずかでも僕たちにとって生きやすいところになっている……はずだ。それを望み、破壊を喜ぼうじゃないか。社会に適合できない者として。