芸術的な主観、エンタメ的な客観

 今日もまた、『自分の書きたいことだけを書いていたら、大衆に受けないから、自分の書きたいことをどうやって大衆に受けるように変容させるのかが技術だ』というような内容の文章を見た。たびたび、その手のことを聞くのだが、どのような理屈に基づいて、そのような結論になっているのかが理解できない。そのような創作が成立する理屈が存在しないのではないかと思う。

 まず、『自分の書きたいこと』というのが良くわからない。僕にとってのそれに該当するのは、絶対に面白いことということになるのだけれど、それは、そのまま大衆に受け入れられないのなら、僕の考えが間違っていることになる。それは単純に間違っていたというだけであって、大衆に受けるように変容させるという項目は存在しない。そもそも、本当に面白いのなら、大衆に受けるはずだからだ。つまり、そのままで大衆に受けないのなら、僕の創りたいものではない。大衆に受けるためのものが創りたいわけではないのだが、僕の創りたいものは大衆に受けるものである必要はあるのだ。

 仮に、創りたいものが大衆に受けるものではないとする。僕には理解しがたいが、何かそれを創らなくてはいけないというものがあって、それが大衆に受けないとする。そして、それを大衆に受けるように変容させた時点で、それは自分が創りたいものではなくなっているのではないだろうか。大衆に受けるように内容を作り替えて、創りたいものを創ったとして、それは創作者のしたかったことなのだろうか。僕にはよくわからない。

 自分が創りたいものを創りたいが、大衆に受けて売れることによって、生計を立てる必要があるため、売れるように変容するということなのか。しかし、やはり、それは創りたいものではないのではないか、と思ってしまう。

 ちょっと、これ系の言説は良くわからないのだよね。創作って、大きく分けると、芸術とエンタメであって、芸術は主観的な表現であるのに対し、エンタメは客観的な構成だと考えているのだけれど、その両者にも属さないような言い方のように思えてしまう。まあ、本人がいいなら、何でもいいんだけれどさ。どういうものを目指しているんだろう。