より良いもの、より正しいもの

 より良い選択をしたい、より良いものに触れていたいという気持ちがあって、それを僕は諦めていないと呼称し、知性を放棄したくないのだなと思った。

 たとえば、僕が好きなものにシステムとシナリオがある。

 ここで、システムがメインであるゲーム、まあ、ボードゲームみたいなものを仮定したとして、そのプレイというのは、数ある選択肢の中から一つを選ぶことなんですよね。その時、別にどれを選ぶのかは自由なんだけれど、自分が他の選択肢より良いはずだと思ったものを選びたいんですよ。そのために考えたい。なにを当たり前なことを言っているんだと言われてしまいそうだけれど。でも、思考を放棄したり、現実を曖昧にしたり、虚構を優先したり、そういったことをしてしまうと、より良いものが選べなくなってしまう。だから、僕はそれが何よりも嫌なんだ。どんなに辛かったり、苦しかったりしても、事実を知りたい。その選択によって、どんなことが起こるのかを知りたい。そして、より良いと思えるものを選びたい。それが僕の中で、どうして今すぐに死なないのかの理由の一つになっているから。

 シナリオでもそうで、どうして、数ある展開や設定の中から、それが選べているのかというと、その方がより面白いからなんですよね。そうでなければ、ダイスの目に合わせて単語を選んでいけばいいわけで。よりわかりやすく、より感情豊かに、より劇的に物語を創りあげたい。そういう気持ちがないのなら、別に創作なんてする必要がないと僕は思うんですよね。いや、そうでもないか。目的は色々あるからな。あくまで、僕が創作をしているというか、したい理由というべきかな。

 科学を優先しているのも、それがより正しいと思われているからだ。AとB、二つの仮説があって、どっちがより最もらしいかを客観的に判断することの積み重ねで出来ているもの。

 まとめると、二つ以上の選択肢があって、しかし、客観的にどちらかが良いと判断しうるものを好んでいるということになる。逆を言えば、僕が嫌悪しているものは、そういった相対的な優位性というものがないものだと気付いた。宗教のように絶対的である必要のあるもの、疑似科学のように虚構であるとわかっているもの、つまり、それだけを根拠もなしに信じ切ることを要求するものか、根拠がないとわかりきっているもの。

 そんなものに人生を委ねるのなら、それはランダムなのだから、死んでもいいということになってしまう。生きている意味がない。考えている意味がない。一刻も早く死んだっていいはずだ。なら、どうしてお前は死んでいないのか。その問いに答えられない。だから、僕はマシなものを選んでいきたい。その先に、待っているものが苦しいものだとしても、現状、最も事実らしいものを選んでいきたい。いつまで経っても諦めていないだろう。諦めた時、僕は自分を保つ必要性がなくなっているのだから。