虚構

 「時間の比較社会学」を読んで、僕がどうして、金銭に対して忌避感を覚えるのかの理由の一つに思い至った。

 それは、時間というのは量だけが問題になるものだからである。100円よりは1000円の方がいいし、それは無限大に発散していくものだ。もし、モノが欲しいのなら、終わりがある。何か欲しいモノがあって、それを手に入れれば終わりだ。けれども、金が欲しいのならば? そこには終わりがない。安心出来る老後が欲しいとか、究極のオーディオが欲しいとか、そういうことにだったら、まだ救いはある。ほとんどきりがないようには思えるけれど、欲しているのはモノであり、質であるから終わりがある。ただ金が欲しいというのだけは、まずい。それは量の問題であり、無限大の金銭とはすなわち、労働などの換算による無限大の時間となり、それは宇宙の死であり、虚無であるからだ。

 この質に依存しない性質というものに、僕はどこか虚無感を抱いて、嫌悪していたのだろう。

 お金にかかわらず、僕は実体のないもの、社会とか会社とか世間体とかグループとかそういうものが嫌いで。要は、その実体のない虚構のモノのために、人々が虐げられ、苦しんでいるのが嫌なんだよね。本末転倒のように思えて。同じものを僕は金に感じている。それを求めても、最終的には空虚があるのみだ。