現実とゲームの虚無的相似性

 ゲームとは何か、という主張は山のようにあって、その定義自体がある種の不毛なのだけれど、遊び、というものを仕事と対比することが多く、その結果として頻出する定義の一つに、現実をカリカチュアしたもの、具象化したもの、というのが挙げられる。

 ゲームさんぽなどを見ていると思うのだが、別にそれ自体が目的ではないのだが、ゲームを面白くしようとすると、クリエーターやカスタマーがそれを楽しもうとすると、結局、現実のシミュレーション的な側面が表れてくるように思える。

 僕がゲームを好きな理由の一つに、ゲームが、現実の実体の一部、つまり、虚無性を中心軸に置いているというものが挙げられる。これもまた、遊びやゲームを定義する時に頻出する定義の一つだ。つまり、仕事や現実の営みと区別しようとして挙げられるのだ。しかし、それは正しくない。仕事や現実の営みも、また、虚無性があるのだ。そして、それゆえにゲームで遊ぶことが肯定される。

 もし、人間が死なず、人類が滅びず、地球が永続し、宇宙が凍らないのだとしたら、その時間は逆に、有意義なことに使用しなければならない。時間が無限にあり、その結果は蓄積するのだから、多くの人が思うのとは逆に、その世界では不要なことに手を出した結果が無限に蓄積してしまうため、不要なことはできない。ゲームは今以上に推奨されない。現実は、その逆だ。どうせ、人間は死に、人類は滅び、地球は消え、宇宙は凍る。だから、何をやっても、何も変わらない。だからこそ、永続的で絶対的な虚無性を持ち、同時に究極の自由なのだ。僕たちは皆、無敵の人なのである。死という究極の呪いを得ているがゆえに、自由を祝福されている。それを存分に祝わなければ嘘である。だから、僕は今日もゲームをやる。ゲームのことを考える。それが虚無であると知っているからだ。