厳密な定義なんて根本的に無理

 なんというか、SNSで発言が容易になったということもあるだろうが、○○はよくないといった提言をよく見かけるようになった気がする。それはMCUのような世界規模のエンターテイメントだったり、献血のポスターといったようなどうでもいいことだったり。そういったものを目にするたびに思うのは、そんな簡単に○○というものを定義することはできないという話だ。
 まだ、MCUは人間が付与した定義づけなので、厳密にできる方なのだが。とはいえ、「ヴェノム」は?(SONYは一緒にしたがっている) 「エージェント・オブ・シールド」などのドラマシリーズは?(世界観は完全に一緒) と疑問を積み上げいくことができる。

 最近あったホームレスが避難所を使用できなかった話だって、何をホームレスと定義するのかという話になり、そして、それをその場で判断できるかという話になる。ずっと家に引きこもり、ホームレスと同じような衛生状態の人間とどう判別する? 身分証明書を持っていなければ? 外に泊まってばかりの旅人と何が違うのだろう。税金を払っていないという人がいるらしいが、ホームレスも税金(消費税や酒税など)は払っていて、逆に有名人でも脱税はする。

 科学的な視点をもってしても、定義は難しい。生物の種も多くの人は厳密に切り分けられると思っているけれど、そんな簡単な話じゃない。動物の種をどう定義するのかという問題は生物学の根幹的で最も難しいものだ。人間でも、たとえば肉体的な話だけに制限したとしても性別だって、男と女で綺麗に分けられるわけでもないし、例外は山のように存在するのだ。


 定義付けは容易なことではない。しかし、それだと不便だし、多くのケースに対応できない。だから、法律や規則がそれを定義づけ、難しいものは個別対応にしたり、たまに線引き自体の見直しを随時しているのだ。そうでなければ、その場の権利者が自分のしたいような解釈をしてしまう。そういったことを繰り返してきて、人類はそれが誰のためにもならないと理解し、辞めたのだ。
 それを理解しなければならない。
 この世の中に存在する多くのことは曖昧模糊としており、連続的で、唯一性があり、多面的なのだ。それを一方的に断じることなんてできやしない。個々ができるのは、それが主観的な意見であると断った上で、発言をすることぐらいだ。社会で使用されている定義(それすら曖昧な場合がほとんどだが)を、自らに都合よく解釈することは許されない。なぜならば、真逆の意見を持つ者もそれをしてくるのならば、もはや定義の意味がなくなってしまうからだ。
 
 なぜ、人々は定義づけを容易だと勘違いしてしまうのだろう。きっと、経験か想像力が足らないのだと思う。知らないのだ。そういった歴史を、そういった事実を、そういった例外たちを。だから、単純だと勘違いしてしまう。
 それを知性の敗北だと安易に結び付けてしまう僕も、同じく定義付けの誤謬に陥っている。