一般人による物語

 よく、EP8はフォースの民主化だと言われていた。でも、僕はそう思っていない。理由は以下の通りだ。

 まず、フォースが上手く使えるのは、先天的な特性であるということが全く変わっていない。フォースは血筋だとか言われるけれど、アナキンは奇跡の子で、父親がいたわけではないし、パダワンになった子たちは、フォース感応者たちであり、血筋が問題となっているわけではない。むしろ、ミディ=クロリアン値(死に設定)の高さが問題なのだ。レイが一般人であろうが、EP8のEDの少年がフォースを使えようが、別にそれはEP1~6の範囲内である。ミディ=クロリアン値が高い一般人というだけなのだから。それを超えて民主化するというならば、それこそEP8までのフィンやローズのようなフォースが使えない者が物語を動かすとかそういうギミックが必要だろう。

 次に言いたいのは、つまりそういうことだ。フォースが物語の中心にある以上、それがモブにまで広がっていくのは、あるいは、フォース抜きに物語を動かすのは無理じゃないかということだ。スター・ウォーズと言えば、フォースなわけで、それを完全に自由化、リベラル化するということなら、それは特別な人が持つものではなくなってしまう。ミディ=クロリアンは何とかしたとしても、結局は、物語に推進力を生み出すものではなくなってしまう。特別なものではないからだ。「ローグ・ワン」なんかは割と近くて、フォースを持たない一般人たちが、その強大な力や運命というものに立ち向かっていく作品なのだけれど、それはスピンオフだから出来る技であって、正当な続編で語るべきなのかは疑問の余地がある。

 だから、スター・ウォーズはそういった現代的な物語に適していない設定が多かったし、そういう土壌でなかったと言える。もし、そこまでひっくり返すのだとしたら、それこそ、EP7~9までフルに使って説得力を増さなくてはいけないし、そういった統一的なヴィジョンのない、今のディズニーのスター・ウォーズ関係幹部にはそもそもが無理な話だ。スター・ウォーズは神話をひな形として生まれているのだから、それを一般人の領域まで堕とすのは、並大抵の技量では不可能だったと言える。その迷走の結果が、EP8~9なのだから。