探求に関して

 ある作品で、作中の設定に関して、よくキャラクターたちが考察をしているのが好きだ。こういう現象は、こういうことではないか、いや、それだとこれは説明出来ないみたいなことを言い合っている。そして、結局、どれが正解の解釈なのか(少なくとも今のところは)決定されない。僕はそれが面白いなと思った。

 現実の場合、そうはいかない。事実は一つしかなく、真理は一つだ。故に現象の観察や実験により、一つに断定出来なかったとしても、最も可能性の高い説を見つけることが出来る。だから、その真理を炙り出す過程を探求と呼び、それが面白いと感じる。

 虚構の場合、真実は何にでもなる。作者が定義すれば、それがどんなに矛盾してようが正しいわけだし、定義しなければ、全てが正解で全てが間違いだ。ゆえに、作中における真理の追究とそれによる事実は、ある意味、説明であって、設定の披露でしかない。それでは広がりが無く、現実での探求のように面白みがない。お前がそう決めたんなら、そうだろうなという感想になってしまう。もし、その披露がなく、みんなが決めてください、それも楽しみですみたいな作品は、どうにも僕は、本体がつまらないから、無理矢理そういう要素を付け加えているように思えてしまう。元が面白い作品ならいいが。考察が面白い作品みたいなものは、よく傑作扱いされているが、それは錯覚でしかない。作品自体ではなく、その考察自体がメインコンテンツとなってしまうのだから。それに対して、虚構の事実を作中のキャラクターが考察することはどうだろう。しっかりと、作中に考察という面白みを加えている、内包されている。これが良いと僕は思った。

 それをメインに持ってきた作品が「虚構推理」だと思っていて、ある意味ではミステリ作品を考える工程、考察自体を作品のテーマとしてしまうという凄い転換をしているので、とても好きな作品だ。このように、本来であれば、作品の外にあったはずで、しかし、十分に面白いものを作中に内包する作品というのは、これから増えていくのではないかという予感がある。まだ、デザイン領域が残っているように思うのだ。