大衆受けに関して

 僕がそう思っているというだけだけれど。というか、ここに書いてあること自体、全部そうだから、今更書いておく必要もないけれど。

 大衆受けを狙ったという作品がある。僕は少し、それに違和感を抱く。たとえば、なろう小説のようにごく限られた層に確実に届ける必要のある作品は、それに合わせたチューニングを行う必要があると思う。その場所で盛り上がらなければアウトで、無数の試行結果という名の過去作があるのだから、それを研究し、最もターゲットに届く作品を創りあげるという方法論が使えると思う。けれど、それ以外の創作の場合、大衆受けしたのは、結果でしかないと思うのだ。

 つまり、大衆受けを狙った作品がヒットするのではなく、面白さにコミットした作品は必然的に大衆受けし、ヒットするのだという考えだ。演奏なんかに例えるべきだろうか。彼らは、例えば、僕みたいに音楽に対する教養がない人間でも感動できるように、と演奏するわけではないだろう。彼らにとって、目指すべき、美とも究極とも取れる演奏があり、それが出来れば、結果として門外漢でも感動すると考えているはずだ。その結果と手段の違いを取り違えている人をたまに見かける。

 まあ、好きに考えればいいんだけれどね。僕はこう思うってだけだし、僕の思考は偏りがあると思うし。これも、究極に面白い作品みたいな、イデア的存在があるという持論に基づいた意見のように思えるから。結局、面白い作品が正義だ。そのバックボーンや作者の都合なんてものは一切省みられることはないのだろう。残酷なことでもあるけど。