究極の作品というイデア

 「タイムパラドクスゴーストライター」という作品が終わった。まあ、その作品自体は割とどうでもいい。普通に失敗作というだけなので。ただ、作中で『透明な漫画』というような概念が出てきて、それには強い共感を覚えた。皆が楽しめる漫画、全人類が楽しめる究極の漫画を追い求めているのだ。そして、それには作者の個性が存在しないという。まあ、個性云々は、この作品にとってはテーマの一部なんだけれど、実際、それが究極の漫画に適応されるかどうかは、そのキャラクターの思い込みでしかない。だけれど、その究極の漫画を目指す、目指さなければ、という気持ちは理解できる。

 まあ、僕の言うそれと、作中のそれには、たぶん、微妙に違いはあって、作中でのその概念は、皆を楽しませるために、その完璧な漫画はあるという概念なのだけれども、僕の概念は、完璧な漫画であれば、皆を楽しませることはできるだろう、ということだ。因果が逆になっている。

 ただ、散々僕も言っているけれど、究極の作品なんてものはないです。全人類が楽しめる作品なんてない。だから、作中の結論のように、誰かに、同類に届くと考えて、自分が創っていて楽しいのを創るのが最強です。はい、議論終了。でもね、多くの人々に支持される作品とそうでない作品があるわけで。その極限を取れば、それは0.9999……が延々に続けば1と同じだというような机上の空論だとは思うけれど、究極に面白い作品が生まれるのではないかと思ってしまう。そういうイデアに、たどり着けなくとも、近づけるのではないかと。

 そういうのに、どうしても惹かれてしまう。完璧な作品という概念に惹かれてしまう。そのためなら、死んでもいいというのは、創作者にとって最も正しく真摯な姿勢だと思うよ。そんな気持ちを思い出させてくれました。ありがとう。

 

 でも、この作品自体は、そこからあまりにも遠い作品で、やはり、初期セットアップ(作品のテーマや主人公などの配置)が失敗しているので、絶対面白くはならないです。というか、これがテーマなら、もっとマシな題材にすればいいのに。あるいは、せめて、主人公を風船を取るなんて善人っぽくするのではなく、(悪人とするのも嫌なら)もっとはっきりと狂人として描くべきであって、ヒロインと合わせて二人の狂人が戦ったり、なんだり、とする方向しかないのでは? まあ、やっぱり、色々と失敗している。そして、失敗している作品というのは、成功している作品よりも言及したくなるものだ。それがはっきりとしている場合。

 なんつーか、普通に終わっちゃったな。本当に原作がセンスねーと久しぶりに思った作品であった。