「アクタージュ」の連載終了

 「アクタージュ」が終わってしまった。正直、あまりショックは受けなかった。どうしてなのか、自分でもとても不思議だった。現在連載されている漫画でも5指に入るぐらいは楽しみにしている漫画だ。単行本で、何度泣いたかもわからない。それぐらいの完成度があるシーンがいくつかある。けれど、すぐに受け入れられたし、ショックでもなかった。そうなってしまったのか、と思っただけだった。

 好きではなかったということではない。考えてみたのだが、たとえば、クリストファー・ノーラン監督が逮捕されてもショックを受けないだろう。瀬戸口廉也がそうなった場合でさえ。ただ、「テネット」が公開停止になったらショックを受ける。どうにかして、それこそ、国をまたぐ移動をしてまで観たいと思ったかもしれない。違いを考える。すると、僕は完成していない作品は常に未完で終わるかもしれないと思っていることが明らかになった。

 なぜならば、人は死ぬからだ。連載なんて、あらゆる状況において停止される可能性がある、あまりにも脆い存在だ。作者が死ぬ可能性は常にある。そして、それについて考えている。だから、打ち切りをくらっても、ショックを受けないのだろう。「テネット」のように、すでに完成しているものが観られないとなると話は変わってくる。この世のどこかに完成したそれはあるのだから! どうして、観られないということがあるだろうか。未完の作品は常に未完だ。完成するその時まで。完璧な形で完成できた連載作品がどれほどあるだろう。

 なんといえばいいのだろう。期待とも希望とも違う気がするが、なにかそういうものがないと、絶望をしないのだと思った。僕は「アクタージュ」にそれを抱いていなかった。多くのものに抱いていないように感じる。良くないと思った。人間、そういうものが大事なんじゃないか。そういうものが胸の奥の炎となって、人々を動かすのではないかと、そう思ってしまうのだが、それは持っていないからの妄想なのか。