救えぬ人

 「アクタージュ」の原作者が捕まった件、週刊連載が与えるストレスに関して、週刊連載の是非、みたいなところにまで話が広がるかと思ったのだけれど、そうはならなくて逆に驚いている。いつも思うのだけれど、誰かが捕まった時、その人に全ての原因があるみたいに思っている人が多いんだよな、思ったより。同じ人間である以上、そんなに大きな差はないと思うんだけれどね。きっと、捕まるリスクもわかっていたし、それで失うものの大きさもわかっていただろう。それでも、彼がそういう行動を取ったのは、別に変人だからなのではなくて、何らかの原因で性依存症のようになってしまっていたからだと思ってしまう。だから、与えるのは刑罰というよりも治療だと思ってしまうのだけれど、世間的にはどうも違うらしい。どうして、世間の人々はそんなに自分の意思というものを妄信しているのか、本当に理解できないな。寝起きでイライラすることとかないのだろうか。

 「MIU404」でも、どうしようもない人間が犯人というのが最新話であったのだけれど、捕まえるか罰するかみたいな話にしかならなくて興ざめしてしまった。そういう、どうしようもない人間を捕まえるだけでは、結局、再犯してしまうから、どうすべきかというシステムの話をすべきなのに、その人と、その犠牲者というミクロの話しかしていないから、根本的な解決に結びつかない。許す、許さないなんて、主観的な話は意味を持たない。そういう、どうしようもない人(先天的か、幼少期の影響で、衝動的な行動しか取れなくなってしまう人)のどうしようもなさを許容するか、強制的に治療するか、隔離するか、そういう話をすべきではないのか。私刑にするというのは、ある意味では答えなのかもしれないが、それが国家の結論ない以上、同じことは繰り返すわけだし。解決にはならない。自分と同じことが何度も繰り返されるというところにまで、思慮が及ばないなら、確かにその人は老いていて、ぼけていたのだろう。

 歳をとるごとに、知識が深まるたびに、思考を繰り返すに連れ、だんだんと認識のずれが大きくなっていく。基本的なスタンスが世間と離れていく。元々、子供のころから斜に構えているような人間だったが、ねじれの位置に属しているようになってしまっている。感性にすら影響を与えつつあり、一般的な娯楽作品でたまに致命的なずれが発生するようになってきた。いずれ、ねじ切れる時が来たなら、それが自身の終わりなのだろうという気がする。