完璧な作品はある、という確信、という幻想

 ある症状がある。それを患った人は、脳の不具合によって、ある人物がその人本人ではないと確信してしまうというものだ。たとえば、長年連れ添った妻が、どう見てもその人には思えなくなってしまう。某国のスパイや、挙句の果てにはエイリアンが化けた存在だと思ってしまうのだ。指紋や記憶、声紋、あらゆる証拠がその人本人だと証明しているのに、違うと感じてしまう。確信してしまう。そういう障害だ。

 

 僕にとって、完璧な作品があるという思い込みも、それなのだと、気付いた。

 

 完璧な作品がある、という感覚は僕が意識を得た時から当たり前にあるものであって、それを主張すると、妻や義弟などは、完璧な作品なんてものがあるわけがないという。文化によるし、捉え方による。単純にトレードオフな要素もあるだろうと。万人が満足できるなんて、あり得ない。確かにそれを的を射ている意見だ。しかし、あると思うだろう、完璧な作品が。素晴らしい作品に触れると、その存在を感じるだろう、と僕は常々主張してきた。そして、そんなことはないと否定されてきたのだ。僕は今日の深夜までは、それが、皆が気付いていないだけなのだと思っていた。だって、あるのだもの。でも、そうではないんだな。ある、という感覚が不具合なのだ。ないのだから。

 そう気付いて、あらゆることが氷解した。どうして、こんなにつまらない作品が世の中にあふれているのだろう、というのは単純に僕にとって疑問だったのだが、そういう感覚がないからなのか。自分が好きな作品、他人にウケる作品、という議論も全く理解できなかった。だって、創作というのは完璧な作品を目指して行われるものであって、完璧であれば、必然的に自分にとっても好きな作品、他人にウケる作品になるのだから、それ以外の目的が存在しうる意味がないと思っていた。違うのか。この感覚は僕の脳のバグなのか。

 そういう感覚を持っている人は、たぶん、一定数いるのだけれど、少なくとも妻や義弟は持っていなかったようだ。弟や妹も父も母も持っていない。なぜか、僕にはあって、それを追っているから、良くわからない分析をしたり、感想を書いていたりしていたのだけれど、皆がそれをしていないのは、この感覚がないからなんだな。

 すっきりした。そういうことか。

 あ、あと、自分の悪癖のようなものにも気付き、それによる弊害も発見することができた。実りの大きい日だった。