自然科学派物語学好き、曰く

 この間、僕が批評とか感想とか好きなのに、いまいちピンとこないというか、気持ち悪さを抱く批評があって、それは、物語の発展を人文科学としてみているのだな、と気付いた。一方、僕はそれを自然科学のように見ている。

 

 例えば、彼ら、物語人文学者たちは、すぐに物語を現実の影響でできたものだと語りたがる。その両者が互いに与えあっている影響を重視し、経済状況や時代性などの反映に重きを置いて評価する。だから、物語は無力だとか急に言い始めるし、なんかそれは無理矢理ではと思えるような結び付けを始めてしまう。くそつまらない作品群に謎の解釈を付け加えた挙句に賛美してしまう。これはかなりバイアスのかかった言い方で、半分は冗談として受け止めて欲しいのだけれど、(実際、そういった批評を僕は好んで読むわけだし)こう言った側面があるのは、本人たちも理解していることだろう。それは物語たちがその時代の反映であり、それを解析することで、現代社会を解析しようと思っているからなのだろう。そういう、人間の営みに焦点を合わせている。

 僕はそうではなく、物語自然学者として、物語を科学技術の発展のように見ている。新たな研究が行われ、その結果が統計として現れ、どんどんと発展しくイメージだ。もちろん、創作者は現実世界に生きているのだから、社会の状況が全く影響を与えないということはないだろう。しかし、それは戦争によって核や無線技術が発達したようなものだと思っている。つまり、ある分野の研究を促すような効果こそあれ、本質として、科学がこの世界の解析を主題としているように、物語がこの感情の解析を主題としているとみているのだ。だから、時代性の反映や、テーマ設定というのは、あくまで感情を揺さぶらせるためのスパイスではなく、物語の本質ではないと僕は考えている。これは、僕が老若男女、全ての時代を問わず、大多数が最高の作品と認めるものが究極の物語だと思っているせいでもあるのだろう。あくまで、そういう、理論的に追い求められる至高の形に近づける行為だと思っているんだ。それは自然科学そのものだ。

 

 元々は、表現とエンターテインメントの違いとも思っていた。その、批評家たちの感覚の違いは。でも、それだけでは理解しきれない部分があると思っていたのだけれど、僕はこの人文科学と自然科学のたとえで、かなり腑に落ちた部分がある。それは、相対的な美か、絶対的な美か、にも近しい考え方の相違なのだろうが。

 まあ、結局のところ、面白い作品に触れれば何でもいいので、上記の事柄もただの妄言に過ぎない。