リアルと創作の関係

 たまに批評とかで大震災を前に創作は無力さを知ったみたいな言説をみることがあるのだけれど、そういうのって、あまりしっくり来ないという個人的な感想。

 確かにさ、リアルの出来事が創作に影響を及ぼすことはあるよ、逆もまたしかりだし。でも、リアルを救うために創作が成されるわけでもないし、創作の肥やしになるためにリアルの出来事が起こるわけでもない。なんか、この両者を極端に結びつけた論調というのは、正直、創作をなんだと思っているのかな、と思ってしまうよ。

 創作、つまり物語は、その実、何の意味も価値もない。それはそうだ。架空の世界の話をして、架空の出来事が起こっているのだから。それが現実に基づく話だろうと、だから何って話だ。現実の人間がそれに影響を受けたとしても、なんというか、それが物語の本質ではないと思うんだよな。極論をすれば、この世界に人間がいなかったとしても、物語は存在するというか、なんと言えばいいのかな……「サクラノ詩」における絶対的な美みたいな話なんだけれど……僕はどちらかと言えば、そういうものとして、物語を想定している。人間という生物の脳の構造において、最も多くの個体に、最も物語的な刺激を与える最適解。それが物語の究極の形だと思っているからかもしれない。

 だから、物語の目的が、人間を変質させ、現実に変化させる力を与えるというものでない限り、その無力さというものが語られても意味がないと思うんだ。マクドナルドでハンバーガーを頼んでも、地震による被害は変わらないんだって嘆いている人を見るような気持ちになってしまうと言いますか。わかりにくくて申し訳ないんだけれど……

 そうやって、本質が無意味であるが故に、僕は物語を愛していられる気がする。たとえば、ハーバード卒ビジネス人曰く、物語を読め、みたいな本が流行って、物語が現実と結びつけられ、現実のための物語となってしまった瞬間に、その輝きが曇る気がする。まあ、いつものように僕の勝手な感想ですが。