信じるということ

 僕にとって、信じるということの定義は、根拠がないものを正しいとする行為というものだ。つまり、理論的にはAでもBでもいいが、Aであることを信じるというものである。

 稀に、科学を信じているんですね、と言われることがある。それは間違っていて、科学は信じるものではなく、現状、最も上手くこの世界を説明出来るものであるというだけのものだ。それは理論であり、信条ではない。たとえば、ニュートンの理論は厳密に言えば間違っていることが知られている。しかし、それを使っていた科学者たちは間違った何かを信じた者たちだったのだろうか。いや、そうではない。彼らは真実を明かすという目的を持ち、事実を見ていた。当時の理論では、それを最も上手く説明しているものはそれだったというだけだ。だからこそ、間違っているとわかれば、それを捨てることが出来る。理論によって成り立つがゆえに、間違っていることがわかる。

 信仰は間違っていることがわからない。ただ、それを信じているだけだ。しかも、Aである理屈はない。たとえば、体のある場所に圧力を加えることで、身体の改善が見られると考える場合、それがツボと呼ばれる原理なのか、チャクラなのか、気なのか、なんでも良いのだ。どれでも説明が付く。ただ、施術者が何を信じるかという違いでしかない。統計的に、そうであることがわかっていて、その原因はわかっていない。それが正しい姿であって、何かを仮定して因果関係を騙るのは、雷が神の力であると言っているのと同じだ。ないものを仮定しているので、否定されることはない。同時に、肯定されることもない。まさに幻影で、全く意味がない。新興宗教が生まれることからもわかるだろう。何でもいいのだ。

 僕は、この、何でもいいという姿勢を嘲笑っているのだと思う。何かを信じるということは、幻想の中で生きていくことを認めることになる。ならば、今すぐ死ねばいいじゃないか。事実を重視しないのならば、今すぐに死んでも同じはずだ。それに気付かない人々ばかりだから、僕は心底嫌になる。自分が無意識に信じてしまっていることを探して、ひたすらに疑い、事実を明らかにする。そうすることでしか、人間は本当の世界、物理的な世界を知ることができない。そんな原則すらわからない白痴ばかりで困る。