過程と結果

 何かを信じている人は嫌いだ。

 何を言ったかではなく、誰が言ったかで結論を変えるから。

 何かを信じている人は嫌いだ。

 どのようにその結論に至ったかではなく、結論そのものによって態度を変えるから。

 

 僕は手法に意味を見出す。正しい手法によって導き出された答えは、たとえ、それが気に入らないものだとしても、それを認める。それが理性であり、科学的手法だ。しかし、そうではない人間が山のようにこの世界にはいる。

 

 

 トランプ支持者が議会に乗り込んだというニュースを見た。それ自体にはさしたる感慨は抱かなかった。そういうことが起きるだろうという予感はあったし、彼はまさにそれを助長するような発言を繰り返していたのだから、さもありなん、といったところだ。

 しかし、その後に、彼のツイッターアカウントが凍結され、日本の支持者(まあ、その存在自体が意味わからんけれど)が喚いていた内容に、とても腹が立った。

 

 彼ら彼女らは、トランプが家に帰れ、と発言していたのに、アカウントが凍結されたために、これらの暴動が起こったと主張する。つまり、ツイッター社やそういったマスメディアによって、暴動を止めるという正しい行為が隠され、悪者に仕立て上げられているというのだ。しかし、それは事実ではない。

 家に帰れ、と言っていたことは事実だが、その前にこの選挙には不正があるということを述べていた。それに前の演説で、今日の騒動を誘導していたのは明らかだ。

 しかし、その信望者はそこに目を向けない。あんなに、メディアの切り取り報道に対して、文句を言っていたのに、自分自身が、全く同じことをしている。

 それが、苛立たしい。

 自分が、忌避している相手と同じになってしまうことに、何も思わないのだろうか。自分に都合の良い偏向報道は受け入れて、悪い偏向報道は受け入れないなどと。偏向報道自体が悪いものとして、そこと対するべきだろう。

 

 彼らは思考の手法を身に着けていない。彼らは主張の手法を身に着けていない。彼らは判別の手法を身に着けていない。

 ああ、そうか、僕が苛立っているのは、そういう救いようのない存在が生まれてしまう、この社会や教育の仕組みに対してなのか。彼らという結果を嫌悪するのは意味がない。彼らという結果が生まれてしまった過程を修正すべきだ。