意見と事実

 コロナに関する呟きで、いつものように、『インフルエンザでも同じぐらいの死者が出ている! 過剰反応だ!』みたいなものがあり、そのリプに、『そのインフルエンザで今年はほとんど死者が出ていないけれど、そんな厳戒態勢でも同じぐらいコロナでは死んでいるんですよ』と返されていた。まさに正論なのだが、面白いのはこのリプに対して、さらに反論する人が誰もいなかったことだ。他の適当な意見に対しては、反論をするのに、最も正しい反証には文句を言わない。

 似たようなものを少し前にみて、それは夫婦別姓に反対しているもので、『日本古来からの伝統を崩すな!」ということを言っていた。しかし、ここにも、『夫婦同姓になったのは明治以降です。そろそろ、明治以降のことを日本古来からの伝統ということをやめませんか』という正論がリプされていた。そして、このリプにも、誰も返事をしない。『別姓になっても絆は残ると思います!』みたいなどうでもいいリプには返事をするくせに。

 要は、理論的に勝てないとわかっている土俵には誰も上がらないのだよね。なんというか、僕にとってはそれがとても奇妙に思える。

 なにか、事実を追い求めるというのなら、最も事実に近いと思われるところにこそ、論議を重ねるべきであって、その結果として事実に近づいていくしかない。些末な肯定や否定には意味がないからだ。しかし、そうなっていないように見える。

 つまり、おそらくは自分が信じたいことを肯定してくれる人に同調し、否定してくる人についてかみついているのだろう。事実はどうでもいいというわけだ。

 なんか、こういう人にとって、自分の意見と食い違ってしまう上記のような正論は、どう見えているのか、と不思議に思う。見えていないのだろうか。完全に無視しているのだろうか。それとも、自分が間違っているとわかりかけているが、それをどうにか否定しようと必死だが、反論が思いつかないだけなのだろうか。

 フラット・アースの話を見た時にも思った。よく考える人ほど、事実に近づいてしまう。自分の信じていたものが、事実と異なっていた場合、彼らはどう折り合いをつけるのか。

 信じたいものを信じ続け狂信者となるのか、事実に目を向けるようにし改宗者となるのか。気になるところだ。