相対差は同じでも、絶対位置の位置づけが異なる

 僕が、よくあるタイプの人と一括りにされやすいだな、と最近気付いた。周囲の人や、そのタイプの人から見ると、僕は同類だと思われているのだけれど、結構根幹的な違いがあって、僕からすると、あまりそのタイプの人は好きではない。どういうタイプの人かというと、自尊心の強い人だ。

 自分が優れている人、と言ってもいいかもしれない。いや、ちょっと待って欲しい、お前もさんざん、そういうことを言っているじゃないか、態度に出ている、と思われるかもしれない。しかし、僕はそうではないのだ。僕が言っているのは、僕が優れているのではなく、周囲が劣っている、ということなのだ。それも、別に僕を認めない周囲が劣っている、というわけではなく、単純に、周囲は劣っている、という考えなのだ。

 この時、自分が上位にいるという態度は同じなので、おそらく、同類にされている。でも、根幹が違うんだよ。そういう人たちは、自分のことを天才ないし秀才だと思っているだろう。僕はそんな風には思っていない。凡夫だと思っている。ただ、周りが幼稚園児だと思っている。そういう感じだ。

 たとえば、あるつまらない作品に出合った時、自分が優れているという考えであるならば、こんなくだらない作品を創りやがって、自分ならもっと上手くできる、と考えるに違いない。しかし、僕は違う。どうして、こんなにつまらない作品が生まれてしまうのか、どうすればいいのかは明白なのに、という考えになるのだ。これは僕の感想を漁ればはっきりとわかるだろう。どうして、そんな簡単なこともわからないんだろう、試写の段階でわかるはずだ、というようなことばかり言っている。

 そして、その根幹、僕の根幹にあるのは、歪んだ完璧主義なのだ。目の前に入るものが完璧であって欲しい。それは、もちろん、自分自身もそうなのだが、僕自身は僕の視界に入ることはない。だから、僕の視界に入る、他のものが僕自身よりも優れていて、完璧でいて欲しいのだ。その理想を下回っていると、ひどくがっかりしているのだ。

 こうやってまとめると、僕のタイプの方が友達になりたくないな。自分が優れていると思っているだけならば、狂人が一人いるだけで済むが、周りが劣っていると考え、それを完璧にしようとする、というのは外力が働くことになってしまう。まあ、もちろん、実際にはそれが不可能であることはわかっているし、近しい人であるほど、実際の事情も理解できるから、無意識ではあるが、そういう気持ちはほとんどない。しかし、海外の映画監督といったような遠い存在には、その気持ちが強く働くようだ。マジで厄介だな……病気じゃなくてよかった。