差分のフォーカスが違う

 こんな風に地味に世界がずれていくと、それを正しく認識している人とそうでない人がきっぱりと分かれていくのが面白いなと思った。それにしても、家族を持っていたりして、死を避けるべき人が、僕たちみたいな死んでも別にどうせ皆死ぬし、みたいな人よりも現実をきちんと把握できていなくて、少し驚く。でも、きっと、それは表裏一体なのだと思い直した。

 

 日常に生きられる人は、わずかな差異を見つけられる人だ。延々と同じような日々を過ごしていても、自分や子供の成長を嬉しく思い、人に褒められたことを誇らしく思い、季節の移り変わりに心を寄せ、平凡な日々を楽しんでいられる。きっと、日常系のアニメを楽しめる人たちで、家族を持ち得る人たちだ。そして、大多数の人間でもある。なぜならば、彼らが日常を築き上げているからだ。彼らがこのくだらない繰り返しのノイズだらけのコピーを延々と使いまわしてくださるおかげで、いつも世界は正常に回っている。壊しちまえと僕は思ってしまうが、こういう人たちがいないと社会は動けない。数も必要だ。そういうバランスに収束していく。

 ただし、彼らはその小さい差異にフォーカスしているがゆえに、大きな差異を正確に受け取ることができない。本当以上に強く感じてしまい、パニックになってしまったり、正常化バイアスが働いてしまって、自分だけは、自分の周りだけは大丈夫だと信じている。お笑い種だが、本当にそんなんでびっくりする。だから、こういう非常時には、きっとその数を減らしてきたことだろう。

 

 災厄に強い人は、大きな差異を把握できる人だ。ピンチになっても、ある程度正常に物事を判断でき、必要なものと不必要なものを分け、サンクコストを飲み込むことができる。劇的な状況に慣れていて、それをストレスと感じない。

 しかし、それゆえに僕らにとって、日常はクソだ。どんぐりの背比べみたいな日々をただ繰り返すだけ。あり得ないほどしょぼい匙を並べられたフルコースをうんざりした顔で口に運ぶことを繰り返す。こういう人は社会にとって不必要だから、数自体は少ない。ただ、災厄に強いことから、しぶとく生き残っているのだろう。自分にストレスがかかることを好むから、現代社会ではゲームとか小説とか、そういう劇的なものを摂取して、日々をやり過ごしている。まあ、もちろん、これらの娯楽は両者に通じる要素がそれぞれの割合で入っているので、ゲーム好きならどっち、とはいいがたいだろうが。

 

 これは性質の違いであって、優劣の話ではない。ただ、こういう差があるのだなぁとしみじみ感じとる日々だ。だから、こんなことになってるのに、悠長すぎない? みたいな思いは、結局伝わらないのだろう。むしろ、その悠長さゆえに、彼らは日常に生きていられるのだから。おそらく、リーダーにも同じようなことが言えて、戦乱の世に才能を発揮する指導者もいれば、平穏な日々に腕を振るう宰相もいるだろう。特性の違いなのだ。僕たちはそれを認識して、自分にとって居心地が良いところを目指していかねばならぬ。