時と共に人類は進歩していって欲しくない?

 テレワークに慣れてきた。3日目なのだが、恐ろしく手になじむ。動画を観ながら仕事をするのにも慣れ、問題なく過ごしていた。いたのに、来週の月曜日は出社だと言われ、理由を聞くと、打ち合わせだという。別に打ち合わせるような事項もないのに。僕は激怒した。僕は一般常識がわからぬ。わからないので、率直に疑念を提示した。僕が出社することで、上司の子供や高齢者である社長を殺すのだと詭弁を説くことで、出社を回避したのだった。その時に思ったのだが、僕が出社すると、それで感染を広めたとすると、間違いなく困るし、死ぬのは僕以外なのに、どうして出社させようとするのだろうという動機だ。考えてみると、たぶん、普段とは違う状況に戸惑っていて、部分的にもいつもと同じことをしたいのだと気付いた。チャットの画面ではなく、面を向って(僕は常に会社の人の顔をみないようにしているので、テーブルを見つめているが)話したいのだろう。慣習が、伝統が優先され、現状を維持しようとしたのだ。殺人的な危機が目の前にあっていてでさえも。

 

 日本の組織の仕組みは、基本的に閉鎖的になっている。閉鎖的な組織というものは、失敗を強く非難し、成功をあまり褒めないという構造になってしまうから、積極的な行動に移りにくくなり、何もしないのが是になりやすい。この環境下では、過去に失敗していない事例を、非難がなかった事例を繰り返すという選択肢が有力になる。慣習的なことを続けていれば、少なくとも自分が責を負う結果になりにくいのだ。

 しかし、危機的な状況というのは得てして、ここで確実に害が及ぶけれど、それをしないで暴走してしまうよりはマシだという行動を求められることがある。例えば、江戸時代の火事のように、火事になった周りの構造物を壊すことで、延焼を抑えるというような。もちろん、最善は積極的な破壊行為をせず、延焼もせず、静まってくれることだ。けれど、そんなことはそうそうない。そうそうないから、選択を迫られているのだ。しかし、閉鎖的な組織では、積極的かつ確実に害を被る選択というのは、とても忌避される。だから、何もしないままに状況が良くなることを望むのだが、そんなわけにはいかないことは歴史が証明している。そして、暴走し、何もしなかったせいで、甚大な被害へとつながっていくのだ。

 論理構造は単純だ。問題は、その単純さゆえに、それを理解している人でさえ、その慣習に従ってしまうということなのだ。なぜか僕は生まれてこの方、どうにも慣習というものを重視できない性格であって、合理的であることを好んでしまうから、伝統を重んじる人と妙に衝突しやすい。日常生活では彼らにアドバンテージがあっただろうが、このような状態では、こちらの方が有利のようだ。理屈を説明すると、折れてくれることが多い。

 

 どんなものにも全てが良くなる選択肢なんて無くて、今ある選択肢の中から最も自分に合ったものを選ぶという原則が理解できていない人が多いようだ。小学校に義務教育として、ボードゲームを配置した方がいいんじゃないかな? もちろん、全てが合理的で損益に叶うように選択される必要はないだろうが、ビジネス上や災害発生中ぐらい、それを優先すべきだと、なぜわからないのだろうか。現状維持を選ぼうとするばかりに、状況を悪化させる人々が多すぎる。そんなに大事かな、現状って。