快適さの局所最適解

 最近、恐怖を抱いている。在宅勤務になってから、ストレスがほとんどなくなってしまったためだ。以前なら、調子のいい時はなんだかんだ仕事に行っていても、次第に体調や精神が狂っていき、限界が来たら、環境を変えるというループに陥っていった。これはこれで問題なのだが、数年で確実に今の環境が壊れるという保証があり、それに依存していた側面がある。幼少の頃から、僕はこういう、破壊的な環境の変化に強く、それを望んでいる人間だった。学生の頃は、それは転校なり卒業・入学なりで自動的に達成されていたのだが、社会人となり、それが自動的にされなくなったので、退職なり転職なりで主導的に行っていたのだ。だから、今の職場も良くて3年しか持たないだろうという前提で入っているし、そうやって働いてきた。正直、半年以内に辞めるだろうな、と薄々感じていた。

 全て、COVID-19が発生する前の話だ。

 前後で前提が大きく変わってしまった。全て、良い方向に倒れた。少なくとも、客観的には。在宅勤務になった。外に出る必要もなくなった。身に合わない高くて広い家にずっといられるようになった。負担だったことが一気になくなり、要らぬ投資が良い結果に化けた。これから、悪い影響が訪れるかもしれない。ボーナスがなくなったりするのかもしれない。ただ、今のところ、全てが良くなってしまった。

 ただ、それゆえに恐ろしいのは、局所最適解に陥ってしまったということだ。

 全体を見れば、もっと最適な状態は存在する。生活保護だったり、ベーシックインカムだったり。ただ、現実的な範囲で、破壊的な変化が起きない範囲で、無理がない範囲で、そういう小さな変化幅で移動できる範囲での、最適解になってしまったのだ。これは袋小路だとわかる。突然変異のような、大きなイベントが生まれない限り、快適さを求めると、ここにたどり着いてしまうと察している。変化を求める必要がない。いずれ、壊れることはわかっているが、どうせ壊れるのだ。壊れた後に動いてもいいだろう。そうやって、ここに留まってしまうだろう。

 生活様式を固定するということは、死を許容してしまいそうになる。恐ろしい。この生活が延々と続くとしたら、今すぐ死んでも大差はないのではないか、そう感じられてしまうから。