「天気の子」の飛躍に関して

 「天気の子」のエンディングに関して。重要なネタバレがあるので、観ていない人はこんな妄言を読んでいる暇があるなら、映画館に行った方が確実に人生が良くなる。

 

 

 

 「天気の子」のエンディングを考えると、飛躍があるように思える。

 今までのセカイ系では、以下のような流れになることが多かった。ここで言うセカイ系はかなりファジーな使い方をしているけれど、まあ、ヒロインとセカイを天秤にかけるクライマックスを持つぐらいのニュアンスの捉え方で頼む。「沙耶の唄」とかね。

 ・ヒロインを選び、セカイは壊れる/変わる。

 ・セカイを選び(選ばざるをえず)、ヒロインが死ぬ/壊れる/消える。

 それこそ、「沙耶の唄」とかわかりやすいんだけれど、前者を選ぶと、セカイが変わったところで終わるんだよね。あるいは、ヱヴァQとかみたいにその責任を追及されたりするところまで、とか。後者はわかりやすくて、輝かしい日常が戻ってきたけれど、そこに君だけはいない、みたいになる。

 「天気の子」、まず後者をやった後に、前者をやる。しかも、別に主人公とかも犠牲になっていない。そこまではいい。そこまでは既存の物語が描いてきた。しかし、その先が問題で……

 

 ヒロインを選んだせいで、セカイが変わってしまった。←わかる

  ↓

 そのせいでセカイが変わったなんて思い上がりだし、そもそもセカイは狂っている。←確かにその通りだけど、それを言っちゃうんだ……

  ↓

 いや、違う。確かにヒロインを選んだせいで、セカイは変わってしまったのだ。←!?

  ↓

 しかし、僕たちは大丈夫だ。←素晴らしい

 

 これ、すごくないですか。今までの作品って、一番上のところまでですよね。でも、その先の問いや答えを出すことが出来なくて、ずっと停滞していて、ほんのりとした幸せを追い求める日常系とか、安易な肯定感を求めるなろう系とか、残酷な現実に対面することだけが事実であるとする新世界系とかが台頭してきて……そんな現代でこれ。特に最後の飛躍が凄いと思っていて、小説版とかインタビューを読みあさった結果、元々は違うエンディングだったらしいんですよ。この大丈夫のシーンは最初のコンテでは違うもので、でも、監督も納得してないし、周りの反応もイマイチだった。でも、RADから「大丈夫」という曲が送られてきて、これだとわかって変更したと。つまり、ある意味では合作の力で、最後の飛躍をしたと僕は思えるんですよ。

 しかも、物語の発想の起点は、本当にただの新海誠監督の天気の話書きたいな~から始まっている。それで、ブレイクスルーが生まれるんだから、才能ない人たちはたまったもんじゃないよな……