「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の感想

 もう一週間経ったからいいだろう。シンエヴァの感想を率直に言おうと思う。

 もし、観ていない方がいたら戻って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正直に言えば、予想通りであり、期待外れだった。

 そもそも、僕は庵野監督に思い入れはないし、エヴァに対してもそこまで入れ込んでいない。やはり、根本的な主張があまり論理的に正しくない(監督自身の思い込みが強い)ものだと思うし、そこから派生した主張も、それゆえにあまり意味はないと思っている。

 しかしながら、破の(継ぎ接ぎながらも)エンタメに振り切った路線とか、Qの客を放っておく演出とか、旧劇場版の作画とか、一目置く部分は山のようにある。マイルストーン的な作品であることは間違いない。

 だからこそ、期待はあった。しかしながら、あったのは、エヴァを終わらせるということだけである。

 

 作画は序盤こそよく、戦闘シーンなどもあるのだが、後半は力尽きている、というか、脚本が決まるのが遅くて、色々と間に合わなかったのだろうと思わせるシーンが多い。劇中劇的な理由があるとはいえ、それを除いてもかなり省力的であったのは、疑いようがない。

 キャラクターたちの救済に関しても、メインのキャラクターはそれなりにフォーカスされていたが、時間の関係上、ちゃんと救い切ることができていない。

 そして、主張も、平凡なものになってしまった。 さんざん、あんなことをやって置いて、最後には、これか、と思う。これでは、(TVシリーズの)エヴァの前に散々言われていたことを同じところに戻ってしまっているではないか。

 

 というか、全体的に古さが隠しきれていない。新劇場版は、エヴァのリメイクということもあり、その古さが、一種の郷愁となり、許されていた部分があったと思うのだが、事実上の新作であるシンエヴァでは、それが顕著だ。

 理想的に描かれる古き農村や、その家族たち、というのは、宮崎駿を思わせるような古さであり、旧劇場版よりも後退してしまっている。人間の描かれた方も画一的で、女性ならば、母か、戯画化されたヒロインか、おばさん、(あるいはマリ)という形がほとんどだ。男性も、背景的に描かれることが多く、メインで書かれているのは、ゲンドウとシンジぐらいである。

 

 うーん、なんなんだろう、この古臭さは。なんか、観ていて、あ、エヴァっていうのは、とっくに終わっていたんだな、と思ってしまった。エヴァの後にエヴァがない、というような理由(記憶が曖昧だが)で新劇場版が始まった気がしたのだが、やはり、そんなことはなく、アニメや映画はその先に進んでいた。アニメの演出や、物語の展開、テーマや主張はどれも、どこかで観たことがあるものになってしまった。

 エヴァが担っていた役目はとっくに終わっていたのである。ただ、旧劇場版が残した爪痕が大きく、その痕を唯一性であると勘違いされていただけだ。痕は過去のものでしかないのに。

 だから、エヴァはこれで終わりです! という宣言に対し、感じたのは、もう終わっていたんだ、ということで、空虚感のようなものが残ってしまった。

 これだったら、「天気の子」の方が、よほど、その先にいる。セカイ系の回答は、現実に向き合おう、ではないのだ。その選択自体が虚構のものだし、そんな簡単に世界は壊せない、というものだ。やはり、Qでカタストロフを描き、シンでその復興(という名の旧時代への回帰)を描く、というのは古い。遅れている。「天気の子」の、災害すらも観光資源にしてしまうようなしたたかさ。それが現実の人類が持ち合わせている力なのであって、その方が進んだ描写なのだ。

 旧劇場版は、その主張はさておき、鬼気迫るものがあった。それは弐号機の戦闘シーンの作画一つをとってもそうだし、作品全体の基盤が怨念にも似た強度を持っていた。だから、この作品は、四半世紀近く前にもなるのに伝説的に語られているし、きっと、あと四半世紀先にも語られるだろう、という確信が得られる。シンエヴァにそれはあるだろうか。この作品は、四半世紀の年月に耐えられる強度を持っているか? 旧劇場版のセルフオマージュによる比較によって浮かび上がったのは、今の彼に、それだけの執着が存在しない、という事実なのではないか? 僕には、「シン・ゴジラ」や旧劇場版にあったのに近い熱量を感じることができなかった。まあ、僕が鈍感なだけかもしれないが。感謝は感じる。まあ、そりゃ、感謝するでしょう。ゴジラウルトラマンが撮れるようになったのは、エヴァのおかげなんだから。

 

 まあ、ただ、これ以外にどうしろというのだ、と言われると、どうしようもなかったと思う。けむに巻くような終わり方をするならいざ知らず、旧劇場版も含めたエヴァを終わらせるということを考えると、自己言及的にならなくてはならないし、セルフオマージュも必要だっただろう。二次創作的、と言われてしまうような展開にせざるを得ない。だって、エヴァの理想の終焉は、そのファンたちの中で、何度となく反復されたものだからだ。だから、どこかで観たことがあるようなものにならざるを得ない。それに反発しなかったのは良かったと思う。それが諦観なのか、愛情なのかはわからないが。丸くなったなぁと思った。

 

 僕の結論として、エヴァはもうとっくに終わっていた。それは、アニメ史、アニメ技術史、物語論、としてもそうだし、庵野監督の中の執着という意味でも終わっていた。だから、その宣言をすることによって、それが確固たる事実にはなるのだが、その宣言自体が意味を成すようなことはないのである。エヴァを超える思いを執着を持っているはずの、「シン・ウルトラマン」に期待したい。