解像度に関して

 人間の認識解像度というものがあるような気がしている。それはたとえでしかないのだけれど、簡単に言えば、世界を個別化・詳細化するか、象徴化・概要化するかという違いである。これはグラデーションであって、その線上のどこかに人々は位置づけられる。いきすぎれば、この社会で生きていきにくくなり、それは障害や病気と呼ばれることになるだろう。

 

 自閉症アスペルガー傾向の人々は、物事の汎用化が出来ないと聞く。Aという場合にBという行動を取るべきだと教えたはずなのに、Aとよく似たA’という状況でどうすればいいのか、わからなくなってしまうというのだ。これはきっと、AとA’を別のものと認識してしまうからなのだと思う。物事の象徴化が苦手で、個別に取り扱ってしまうのだ。ゆえに、図鑑のようなものを覚えるのは得意なのだろう。AモデルとBモデルの違いを健全な人間は判別しにくいが、彼らにとってはそこに大きな差違が存在するから。角に繊細な解像度を持っているとも言える。顕微鏡のような視界で世界を認識しているのだ。

 逆に、ADHD傾向の人間は、魚眼レンズのような歪んだ視界を持っているように感じる。視界は広いが、解像度が低く、モザイク状だ。本当はAとBは違うのに、それを同じようなグルーピングで捉えてしまう。本当は新しいものなのに、今までのものとの差違を感じにくく、すぐに飽きてしまう。象徴化が得意なのだが、それがいきすぎてしまっている。差違を判別できなくなっている。

 

 うちの場合、妻は前者の傾向があり、僕は後者の傾向がある。だから、僕は鈍感でおおざっぱで、妻が気付くようなことに全く気付くことができない。しかし、妻は計画が立てられず、細かいことに引きずられ、問題を発生させることも多い。きっと、適切な状態は二人の間に存在しているのだろう。僕はよく、解像度の高い世界が羨ましく思う。視界が広かろうが、よく見えるようになるのは、自分の死だけで。ならば、この存在している世界を、その今を、ちゃんと感じ取れる人間になりたかった。目の前のことに集中して、他のことが目に入らなくなるような人間でいたかった。残念ながら、生まれた時から、脳の構造的な傾向は決まっている。僕は一生、解像度の高い世界を見ることができないまま、死ぬのだ。