楔に関して

 仕事で半年後の予定を立てられて、驚いてしまった。そんなに未来のことはわからないと思ったからだ。衝動的に仕事を辞めてしまうかもしれないし、事故に遭うかもしれない。でも、多くの人はそう言ったことを考えずに、未来の予定を立てる。その違いを考えた時、僕は楔の有無によるものかと考えた。

 重しや碇と言っても良い。人の生き方は、その実、非常に自由度の高いものだ。早朝に仕事と逆の方向へ行く電車に乗り、海を見てぼうっとしてもいいし、車に乗って人混みに突っ込んでもいいし、奇声を上げながら踊り始めてもいいし、今すぐに首を括ってもいい。でも、人々はそういった選択肢を普通は選ばない。なぜなら、そうすることによるメリットがないし、なによりも、そうしたくないという理由があるからだ。守りたいもの、と言っても良いだろう。そのために生きているもの、それがないと生きられないと思うものだ。それは子供であり、配偶者であり、友人であり、趣味であり、矜恃であり、地位であり、欲望である。これが強い人間ほど、未来の見通しを立てられているように感じるのだ。まあ、当たり前のことだと言える。なにもないと自覚している人間ほど、先々のことを考えずに動いてしまう。それをわかっているから、未来のことなんてわからないと思う。逆にいろんなものを持っている人は、それゆえにやらなくてはいけないことが大量に出てしまう。その維持で人生が埋まってしまうから、何年後もやっていることは変わらない。

 どちらの方が幸せなのだろうね。

 僕はそれだけ大事なものが見つかっていないから、楔のある生き方ができていないけれど。多くの人々がそれだと思っているものは、ガラクタでしかないと知っているしね。だからといって、なにも持たない人生というものの、虚無だとは思う。どっちにしても虚無なんだよね。まあ、死ぬからな、人間は。