抜き打ちテストのパラドックスを人生に適用する

 僕は、割とエッセイ漫画をよく読む。他の人がどういうことを考えて生きているかにかなりの興味を持っているからだ。必然的に、難病を抱えた人たちの漫画もよく読む。非常に苦しい治療をして、それでも数年生きられるかどうかという人たち。僕がその立場に置かれた時、同じように振る舞えるだろうか。そんなことを思いながら。

 きっと、僕はこの先、ずっと苦痛にまみれた人生だとわかった瞬間に、自ら命を絶とうとするだろう。それは老いによるものか、病によるものかわからない。けれど、いずれ、その日が来るだろう。ゆえに、逆説的ではあるが、老後の心配はしていない。それが問題になるほど長く生きることはないと思っているからだ。

 ところで、抜き打ちテストのパラドックスというものを知っているだろうか。ある日、先生が今週中のどこかで抜き打ちテストをやると宣言する。しかし、生徒は反論する。抜き打ちテストはできないはずだと。なぜならば、仮に金曜日にテストを行うとすると、木曜日になると、明日テストを行うことが確定してしまう。ゆえに、金曜日にテストをすることは出来ない。しかし、木曜日にテストを行おうとすると、前述の仮定から水曜日には木曜日であることが確定してしまう。なぜなら、金曜日にテストをすることはできないからだ。その繰り返しで、全ての日でテストが行えないとするパラドックスだ。

 もちろん、これはただのパラドックスで、そんなことはなく、抜き打ちテストはできるのだけれど、同じようなことを人生に対しても思ってしまう。ある日、僕は未来に何の価値も見いだせずに自死するとする。ならば、どうして、その一日前には死なないのだろう。その一日で何かが変わるだろうか。そうなると、死ぬ日が一つ、前にずれる。それを繰り返していくことで、今日という日が死ぬべき日になってしまうのではないか。そんな風に思ってしまうのだ。ある日、生きている意味がなくなるのだとしたら、今日だって生きている意味はない。

 けれど、僕はこれに対してだけは、回答を持っている。ならば、いつ死んでもいい。そう考えれば、僕はまだやりたいことが残っている。「MUSICA」をやりたいし、「アベンジャーズ/エンドゲーム」を観ずには死ねない。だから、僕は今日も全くやりたくもないくだらない仕事をしながらも、生きていける。そうだ、僕は創作に、ただの幻想に生かされている。それぐらいが、ちょうどいいのだろう。この、なんの意味もない偶発的な事象としての、僕の存在理由としては。