正しさ

 完全に陰鬱な状態になり、気力が喪失していたが、少しだけ戻ってきた。理由はない。きっと、睡眠に飽きてきたとか、栄養状態が良くなったとか、腸内環境とかそんなところだろう。僕という現象はそんな些細な物理的要因に左右される。いちいち気にかけていても仕方がない。馬鹿みたいだなと思う。けれど、しょうがないと諦めるしかない。自分の状態を自分で完全に制御することなんてできないのだから。

 

 何もない、どうしようもない、ただ死だけがある現実で、僕は何ができるのか、何をしたいのか、延々と考えていた。一日中考えていて、仕事が手に付かない。愚にもつかないことを検索して、こいつも何もわかってない、考えていないと勝手に怒り始める自分に嘆息し、自力で考え抜くしかないと気付く。しかし、結論が出る前に、今か今かと待ち構えていた定時が訪れて、僕は一秒もそこにとどまることなく、帰宅する。そうして、今日も一日を乗り越えたとほっとして、どこか張り詰めた空気を弛緩させ、そのまま家に帰る。途中で本を読み、ゲームをやり、ボードゲームのルールを考える。すると、少しだけ気持ちが楽になってしまう。少しだけ楽しい気持ちになってしまう。夜が更けてくると、次第に恐怖が沸き上がる。今日も何もしなかった。何も決まらなかった。ただ、あらゆることを未定の棚に並べて、棚卸する前に一日が終わる。その恐怖で頭がいっぱいになる。日記には、毎日同じことばかりが書かれている。『今日も何もしなかった。何かを変えなければ』。一年前の項目にも同じことが書いてあることを確認する。ああ、この毎日を延々とコピーしていくのだという諦観と、人生は自由なのだから変革を一秒でも早く起こすべきだという提言が頭によぎる。そして、その決定を保留にする。結局、それを繰り返す。諦めているような、諦めていないような毎日を繰り返す。虚無だ虚無だと喚きながら、何よりも虚無に漬かりきっている。何もかもに飽きてしまった壊してやろう。けれど、その壊した先も延々と飽き続けて、壊すことに飽きてしまった。どうすればいいのか。答えは決まらない。事実だけは決まっている。何もしても、結局、変わるものはない。人間は意味を喰らい、生きていくのだという。ならば一から十まで、自分が今思った、感じたことですらも、結局は物理現象の演繹的な結果であって、意味はないと考えている僕は何だというのか。意味に飢えている。この世界にそれはない。だから逃げているのに、なぜか、生きている時間の大部分をこの世界で消費しないと、空想の世界まで壊れてしまうという。それは困るから、努力している。けれど、それは本末転倒なのだと僕の理性は延々と苦情を言ってくる。ああ、確かにお前の言うことは正しいよ。正しい道は一つなのだろうな。前々からわかっている。