僕の考えていることをちょっとまとめてみたいと思う

 仕事が暇すぎた。いつもの数倍以上に戯言です。僕以外は無視して。

 

 まず、人生に意味なんてものはない。それは科学的に明らかだ。僕たちはただの現象でしかなくて、死を逃れる手段はない。成長と変化は死と同等だ。ゆえに、あらゆる行動には意味がなく、等価で無価値だ。それでも、この肉体としての脳、その構造にとらわれた精神として、楽しいことだけをしたいと思っている。全てが虚無なのだから、踊るだけ踊っておけ。無限に生きたいが原理的に無理だ、諦めろ。尻を振れ。幸福に生きよ。一期は夢よ、ただ狂え。

 安定や称賛、家族なんてものに何となく洗脳されていた時もあったが、それはただ世間の幸福を認識し、それが簡単にできると思ったからやっただけで、僕自身が考えたものではなかった。その結果、それはあまりにも僕を楽しめるものではなかった。単純に詰まらな過ぎた。虚無虚無の虚無。

 なら、僕が昔から好きなことは何だろう。それはシステムとシナリオだ。では、どういうシステムとシナリオが好きなんだろう。インターネットの通信もシステムだし、政治家の答弁もある種のシナリオだ。けれど、当然のように僕はそこに何の面白みも感じない。

 誰かを、自分を、人を楽しませるための、システムとシナリオ! 僕はそれらを万人における感情の再生機だと思っている。エンターテイメント作品は、なるべく多くの人に、なるべく何度も、なるべく大きな感情を与えるものだと定義できると思っている。それは、現代工学ではなしえない、感情の再現だ。

 僕は死ぬほどセンスがないし、技術もなければ、情熱もない。けれど、面白いと感じられるものと向き合っていないと、生きている感じがしない。最高のストーリーで頭がしびれている時だけ、生きていてよかったと思う。好きなことを考えていないと全てが灰色に思える。楽しい世界で生きることだけが、僕の望みだ。

 でも、きっと、ずっと楽しいことだけというのは、楽しくなくなってしまう。それは人間の性で、動物は加速度しか認識できないようになっているから。常に槍が降る世界では、槍が降ることは異常ではない。曜日ごとに空の色が変わる世界では、そのこと自体に面白みを感じることはできない。

 ならば、本当に自分のやりたいことを求めるために、苦行でも頑張ってやっていかなくてはならない。やりたいことのために、やりたくないことが付随するのは、仕方のないことだ。けれど、僕たちには知識と技術がある。それによって、やりたくないことを乗り越えていけるはずだ。僕もそう考える。

 理屈付けをしなければ動けない僕でも、これだけしっかりとした理由に裏付けされていれば、動き始めることができるはずだ。本当かなぁ?