結婚のハードル

 妻の妹は結構まっとうな人間なのだけれど、まっとうゆえに早く子供が欲しいそうで、婚活的なことを始めているらしい。その話を聞くとクラクラしてしまった。

 まず、冷静に考えると、共に生活を営むということの難しさ、そのハードルの高さに驚いてしまった。金銭感覚や食の好み、生活や人生の指針や、家事の上手さやこだわりなど、気にすべきことは山のようにあるだろう。それらがお互いに許容範囲に入ったとしても、生活ができる、というだけだ。

 人生を共に歩むとなると、家族観や死生観、価値観といった根幹的な部分がある程度一致している必要がある。そういう、思考のプロトコルとでもいうべきところが一致しているというのは、かなりハードルが高い。まあ、これは、僕たちが少数派であるがゆえかもしれないが。

 また、日々を過ごし、会話や行動を共にするとなると、趣味や嗜好、時間の過ごし方の一致なども大事だ。うちの両親とか見ると、驚くほど会話しないし(別に仲が悪いわけではないし、むしろ良くはあるのだが)、行動を共にすることも珍しい。共に映画を観に行っても、途中で片方が出てしまうこともあるぐらいのようだ。でも、現代では、そういうことは推奨されていないというよりも、成立しないことが多いように思える。

 あまりにもハードルが高い。そして、その人の根幹に触れすぎている。そんな人を何らかの補助を用いたとしても、見つけることなどできやしないだろう、という気持ちが支配的になる。少なくとも、僕は見つけることができないだろう。こんな根本的な話を多くの人から引き出すことなど無理であるように思えるし、実際には、それぞれの打算が挟まるから、とてつもなく難しいように思える。

 それなのに、これだけ多くの親子が存在するということは、そういうハードルを見えなくし、繁殖を促す仕組みが、恋愛やら子供が欲しいという気持ちやらが、それだけ強いということの証左なのだろう。そうして、冷静になった時、人々は不幸になるのだろう。重苦しい事実だ。僕たちは、自身の幸不幸よりも、本能的なものを優先するように出来ている。