自己循環?
そういえば、推しと言うような存在がいないな、と思った。好きな作家や作者はいるのだが、それらは自分にとって素晴らしい作品を定期的に出力してくれる存在、という意味で有難がっているだけであり、その存在が世界を照らしてくれる、というようなものではない。好きな作品の好きなキャラクターも存在するが、それは好きな作品の中で最も好ましいキャラクターというだけであって、世界を照らす存在ではない。
よく考えてみると、昔から、依存心のようなものがないと感じられる。宗教や宗教めいたものを糾弾し続けているのも、昔から信心のようなものがないのだろう。縋る対象というものがない。決して、自立しているわけではないつもりなのだが、何かに頼っている感覚がない。頼る必要もないと感じる。
幼少期に、両親や教師に対して、彼らはなぜこんなにも愚かなのか、彼らは自分よりも頼りない存在なのだ、と思ったことを覚えている。それは幼さゆえの無知ではあったが、やはり、その感覚が根底を成しているのだろう。
そもそも、自分以外の何かはいつでも消失しうるものである。自身の消失だけは、自身が存在している以上、発生し得ないものだ。自分以外に依存する理由というものが思い浮かばないし、根幹的にそのような気持ちになったことはない。
やはり、自分自身を絶対的な存在と置いているのが大きいと感じる。しかしながら、人類は皆、そうでしかないのではないか。自分自身にとって、自分自身は絶対的な存在であり、唯一無二だろう。この辺の絶対感とでも呼べるものが、他人との大きな感覚の違いになっていそうだと感じる。