「すずめの戸締り」の感想

 いつもの。

 恒例となった新海作品だが、本作は震災三部作とでも言える「君の名は。」「天気の子」に続く集大成的な作品になっており、非常によく出来ていると感じる。三部作の中でも完成度では随一といってよいだろう。という、総体的な評価を前提において、細かい所を見ていきたいと思う。

 

 まず、全体的な構成だが、全国を回るロードムービー的な作りになっているが、綺麗に過不足なく組み込まれており、無駄な時間がなく、楽しく観ることができた。

 

 作り手の意図を正しく伝える、ということが優先されているようにも思う。やはり、ここは実在の震災を扱っている、という点が大きいだろう。企画書を配布してまで、意図を表面化してしまうのは、作品に深みを出す、という点よりも変に勘違いされてしまうことを避けたい、という意図なのではないか。祝詞においても、テーマ(の一部)をそのまま口にしてしまうのは、最低でもその点において、伝えるべきメッセージを明白にしておきたかったのではないか、と思う。しかし、そのテーマがしっかりと物語に組み込まれているので、違和感は感じなかった。(完全に余談だが、洋画「グレムリン」には割と唐突めに表れて、『日本の電子機器の流行りとその貿易摩擦』というテーマを語るおじさんがおり、夫婦の中では唐突すぎる露骨なテーマ語りを『テーマ語りおじさん』と呼んでいるのだが、本作はそうなっていない)

 「君の名は。」と「天気の子」で使用されていた劇中歌を使った演出や、劇的なクライマックスも抑えられていた印象に思う。これは、物語的な盛り上がりを優先しすぎ、実在の印象から離れ過ぎないことを狙っているのではないか。

 

 もちろん、モチーフも上手く使っており、深読みの余地を残してくれている。特に「君の名は。」から続く作品には、日本の伝統的な物語の系譜が組み込まれている。たとえば、庵野・押井・細田といったネームバリューのある他の監督は、そういった側面が少なく、一から創作されているため、少し浮ついた、悪く言えばアニメ的な感覚がある。伝統的な神話や民話といったものは、元々、科学が発達していない時に、自然現象などを物語的な意味付けで説明した、というのが前提にあるだろう。だから、科学がある現代においても、一定の説得力を持ち、多くの人にニュアンスだけでも何となく伝えることができているのではないか、と感じる。

 

 日常の裏にある隠れた世界があり、そこに災害の元がある、というのも、突発的ではないモチーフの一つだ。人間社会は、何事もなく、明日があるのは当然だと思って過ごしているが、実際にはそうではない。薄皮一枚で狂気的な危険があるが、それを実感できているのは、限られた人々だけだ。あるいは、そういった社会に組み込まれず、剥き出しの自然と対面しなければならない動物たちだけが、それを見ることができる。

 

 

 そう言った中、説明が極端に少ないのは、ダイジンと言えるだろう。まだ一回しか観ていないので、なんとも言えないが、個人的には閉じ師のおじいちゃんの師匠的な存在で、その昔に要石となった存在なのではないか、と思っている。つまり、「すずめの戸締り」ゼロとでも言えるような、下敷きにある物語が存在する、ということだ。そうすると、おじいちゃんの要石になることに対する考えや、敬語なども理解しやすい。威厳のある存在のように見える、というのも、ここにかかっているのだろう。要石として存在し続けることにより、人間の意志を失い、神になっていく。そういう話は明示されているので、ほとんど神のようになった、元人間、という形だろう。

 右大臣と左大臣、というのは言わば、ボディガードのようなもの、とWikipediaにあったので、身を挺して世界を守っている、という表現かもしれない。白と黒であったのは陰陽の表現だろうか。個人的には、白が善意、黒が悪意の表現であると感じる。だから、ダイジンはすずめが好きという行為によって、扉の位置を教えていた。一方、おばさんが悪意を言ってしまった時、右大臣が黒くなっていたのは、これではないかとも思う。善意と悪意は実際のところ、表裏一体であり、それらは簡単に変容しうる。そういうことなのかもしれない。右大臣の方が大きかったのは、右大臣の方が長く存在している要石であり、力が強靭だったのだろう。だから、左大臣よりも言葉を発しない。すでに人間から大きく離れた存在になっている。

 

 これらから導き出される本作のテーマは、『善意の肯定と自己犠牲の(消極的な)否定』である、と考えている。自己犠牲が世界を救う、という物語はキリスト教的な世界観ではあまりにもありふれているが、そうではない、としているのではないか。ここで善意と自己犠牲の何が違うのかといえば、自己犠牲は自身に大きな損害を与えるものとして定義できるだろう(もちろん、これらは地続きであり、一つの軸上に存在する)。たとえば、草太が要石になるようなことは、自己犠牲だ。まだやりたいことがあり、生きていたいのに、世界のために自身を投げ出す。しかし、それでよいのだろうか。そうではなく、世界を救うのは、僅かな善意の積み重ねだ。それは、旅人に道を教えたり、ミカンを拾ったり、それをあげたり、一晩泊めて上げたり、そういった積み重ねだ。日常にある、ちょっとした損得を気にせず、人のためを思ってやってあげる、という親切心だ。

 すずめは最初から、ミミズに対して平然と立ち向かい、命を投げ出すようなことすらする。しかし、それは震災の傷が癒えていないことの証明である。命なんてものはちょっとした運命の掛け違いで左右される儚いものであり、恐怖しても仕方がないと超然としているのだ。だから、簡単に自己犠牲的な行動をしてしまうし、それを褒められて誇りに思ったりもしてしまう。だが、本格的に好きな存在が消えてしまうことを再び経験したすずめは、確かに命は脆弱だが、それでも、生きることに執着し始める。だからこそ、彼女は自身を投げ出すことなく、しかし、それでも世界を救うことを求める。

 閉じ師が兼業状態で行われている、というのも善意から来る、というテーマが表れているのではないか、と思う。あくまでボランティアで、生業は別にある。ヒーローというわけではなく、善意によって、この世界は回っているのだ。

 しかし、そうなるとダイジンが再び要石に戻ったことは自己犠牲なのではないか、という意見があるだろう。確かにそれは一理あるが、個人的な感想としては、ダイジンはすでに手遅れの状態にあり、あれは善意の範囲に含まれるのではないか、と思う。『すずめの子になれなかった』というのは、その宣言なのではないか。そもそも、元閉じ師であったと仮定して、要石になったことは善意でもあり、自己犠牲でもあったのだろう。しかし、封印が解かれ、すずめに感謝されることで、すずめが好きになり、その子になりたい、という欲求を抱く。これは神になり切っていない、人間の部分の意志によるものだろう。だから、この好意、善意から、後ろ戸の場所を探す。ここは、ダイジンを追うすずめ、すずめを追うおばさん、という対比にもなっている。だから、要石の役目を若い閉じ師に押し付けるようなこともする。ただ、ダイジンはすでに神に近いものになってしまっている。すずめからの拒絶と再びの感謝に触れることで、それを自覚し、得心がいき、再び善意で要石となったのではないか。

 また、この部分には、新海作品に共通する、無情さ、自然の摂理の厳しさを感じる。特典冊子にも書いてあったが、こちらの心情とは別に自然界の法則は当たり前のように無慈悲に実行されていく。ダイジンがどんなに望んでも、再び人間に戻ることはできない。そういう、摂理なのだろう。だから、どうせ戻れないのなら、と要石に戻る。それは無情な自然の摂理であると同時に、ダイジンの善意でもある。

 

 その周りの善意があったとしても、最終的に、自分の歩みだけが、自分を救うことができる、としたのが、この作品の白眉な点であるだろう。死者に物事を語らせたり、閉じ師のような超自然的な力を持つ者が、傷付いたものを救う話にもできただろう。そうではなく、この世界は確かに厳しく、死と隣り合わせの狂った世界ではあるが、そういった世界で希望を持ち、生き続けることで、自身を救済できる。その救いこそが、自身が歩む理由になる、という自己循環。その強さを明確に描き、それがクライマックスになっている点が非常に良かった。並の監督ではそうはならなかっただろう。

 

 「君の名は。」は確かに奇跡的な、あり得ないほどのヒット作となった。しかし、同時に、新海監督には、『そんなキャッチーな作品を創ればヒットするのは当たり前』(?)といったような意味の分からない指摘や、『震災を無かったように扱っている』というような的外れな指摘も多く届いているように見えた。そういったものに向き合った結果、生まれたものが「天気の子」であると感じるし、そこから時間を置いて、ようやく現実の、事実に向き合うことができるようになり、「すずめの戸締り」が生まれた、と感じる。露悪的に、あるいは感動的に、震災を取り上げるのではなく、ただ、確かにあったものとして、そして、その前も繰り返し、この先も繰り返すものとして、あの震災を描いた真摯さには頭が下がるし、その真摯さ、真剣さこそ、他のポスト宮崎と呼ばれた監督たちに足りなかったものだと思う。真剣に物事に取り組むのは難しいし、怖いことだ。無知な人にはわからないだとか、商業的にやらざるを得なかったとか、そういって斜に構えて逃げることは容易で、易しいことだ。だが、それをしなかった。新海監督は、自身の責任を果たすべく、毎作品、テーマに真剣に向き合い、その時の全力を出している、と感じる。だから、僕は新海誠が邦画アニメ映画の次の担い手になって良かった、と、つくづくそう思うのだ。

 

 

 ここで一度、三部作全体に関する簡単な感想の振り返りをしたい。

 個人的な純粋に好きの大きさで言えば、「天気の子」が一番になる。やはり、世界は狂ったままでよい。むしろ、狂っている。それでも、自身の選択の責任は負う、という結論は当時としても、現在でも非常に画期的なままだ。「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が、その期待とは裏腹に、宮崎作品よりもむしろ前に回帰してしまったことを思うと、その斬新さ、素晴らしさは、特筆に値すべきだ。庵野にはマジでがっかりした。

 ただ、先も述べたように、完成度で言えば、間違いなく、本作の方が高いと言えるだろう。三部作全体の総まとめとも言えるものであり、青春ものとしての側面が強かった前二作から一歩踏み込み、全世代型の(まあ、若い頃は誰にでもあったので、青春ものっていうのは、ある意味全世代型ではあるんだが)作品であり、監督の癖(へき)も抑えられているし、表現としては現代的な、テーマとしては根源的な作品であり、完成度が高い。

 一方、「君の名は。」ほどの大衆受けを果たすのもまた、難しいだろう(まあ、これは「君の名は。」が化け物すぎるだけだが)。流石に、あんな記録をポイポイと出されても困る、というか。まあ、「鬼滅の刃」とかいう、もっと頭おかしい奴もおるけど……

 それぞれにそれぞれの良さがある、という感じで、未だに「ぼくらのウォーゲーム!」を擦り続けている誰かとか、「攻殻機動隊」を擦り続けている誰かとか、「エヴァンゲリオン」を擦り続けている誰かとか――この話はもうやめようか……

 毎作品、しっかりとテーマに向き合っている新海監督が好きだし、これでいったん、震災からは離れるとは思うけれど、次作も期待したい、と思う。