物語の妥協点

 物語には妥協点がある。たとえば、敵になっているキャラが味方になる時、敵がしてきた悪事に対して、ある程度妥当だと判断できる罰を受ける、とか。禊なんて茶化されることもあるけれど。あるいは、ヒーロー映画で最終的に主人公が敵を倒すのも近い。こちらはお約束と言うべきもので、妥協点とは少し違うけれど。

 要は、読者と著者の間に、ある一定の、このジャンルなら、この媒体なら、こういう事情がある(はず)だから、これぐらいで許そうという線がある。数多くの作品はそれを踏まえて作られるのだけれど……でも、それはつまらないんですよね。

 過激な展開が売りの作品ってあるじゃないですか。少年漫画なのに、仲間が簡単に死んじゃいますよ、とか。それだけを売りにしたような作品もあって、そういうのはすぐに消えてしまう。一方で、圧倒的な人気を誇る作品もある。その違いを考えていたんだけれど、過激な展開のみ、を売りにした作品は消えるというだけだと感じる。過激さというのは、加速度なので、過激であり続けるというのはできないんですよ。作品が崩壊する。そうではなくて、作品における論理を突き詰めた結果、普通なら妥協してしまう点を、妥協せずに突き進んだ結果として、過激になる。こうであれば、人気が出る、ということなのかなと。

 意外な仲間が死んでしまう、というのを売りにするのではなく、普通なら仲間やヒロインには不思議なバリアが張ってあって、死んだりはしないのだけれど、そこは躊躇しません、というべきであるというわけだ。

 現代では、物語が溢れている。物語を追っていない人ですら、練度が高い。そういう中で、お約束をなんとなくで守って、なんとなくの妥協点を探って、なんて作品は埋もれてしまう。数多存在する作品の一つでしかない。そうではなくて、媒体における限界も、ジャンルにおける決まり事もみないことにして、ただ、作品を面白くするために、作品の論理を守るために、突き抜けていった作品が、話題になり、評価される。そういうことなのだと、僕は思う。何が言いたいかというと、ネタバレを踏んでいないうちに「メギド72」をやるべきということです。