問題となるのは感情だ

 妻はよく、理想と違いすぎる自分の現実に打ちのめされて、動けなくなる時がある。僕からしてみれば、それはあまりにも意味のないことで。つまり、自分は多要因からこのような状態になっているので、そこに文句を言っても仕方がないと思うのだが、でも、どうしても気にくわないらしい。理屈ではわかっていても。そして、この間、気付いたのだが、それは僕にとっての死と同じなのだ。

 昔から、どうして皆、どうせ死ぬのだということに怯えていないのか、不思議でしょうがなかった。死んだら幽霊やら転生やら天国やらといった救済があると自然に信じていて、恐怖を感じない人間もいて、それはそれで馬鹿らしいけれど、理解は出来る。僕だって、それらを本気で信じることが出来れば、死は一つの通過点でしかないと信じられるだろう。爆弾を抱えてテロを行う過激派のようにね。でも、僕が疑問だったのは、そうではなくて、死んだらただ死んでしまうだけで、その自我が消失するとわかっているのに、それを最大の関心事としない人々たちがどうしているのかということだった。妻のその一人で、というか、そんな人ばかり出会っているけれど、ちゃんと科学的に客観的に死がどういうものか理解しているのに、怯えていない。それは仕方のないことだし、考えても意味がないものだと言う。確かにその通りなのだが、とは言っても怖くはないのかと聞いても、そうではない、僕は悲観的に過ぎると言うのだ。

 そう、つまり、これは僕にとっての理想の自分像とのギャップに対するスタンスと同じである。前にも気付いたことがあるのだけれど、本質的な問題は、どうしても回避できない死が怖く、どう考えてもクソだと思うところにあって、感情的な問題なのだ。あくまで、それを引き起こしているのは、科学的な事実だけれど。だから、理想とのギャップに僕が何ら問題を感じないように、彼女らもまた、いずれ死する未来に何ら問題を感じていない。同じように、死んでしまうなら、全てに意味がないと僕が怯えているように、理想にちっとも近づけない自分を責め立てるのだ。

 どうすれば、これを解決できるのだろうか。思うに、無理としか言い様がないような気もしているのだけれど……