不可能性だけが、人類には受け継がれていく

 「ザ・ノンフィクション」のphaさんの回の後編を観ていた。すると、彼はシェアハウスを辞めてしまったが、その意志は若い者へと受け継がれていくというようなニュアンスの編集がされていた。考えて見れば、「ダーウィンが来た!」でもエンディングはほぼ毎回、子供たちが生まれたり巣立ったところになっているし、各ドキュメンタリー番組でも次世代へ繋がるという終わりをすることは多い。

 皆、自身の死が受け入れられないのだろう。だから、この意志は引き継がれるとか、社会とか未来とかのためにとか、そんなことが大好きだ。自分よりも大きいものに所属し、それに尽くすことで、自分がいなくなっても、その大きなものの一部として存在し続けることが出来ると思っている。それは家族であったり、企業であったり、社会であったり、教団であったりする。けれど、そんなものは錯覚で。意志は受け継がれているように見えて、明らかに歪んでしまう。宗教の歴史を知っていれば一目瞭然だ。この文明や社会だって、簡単に消滅してしまう。人類の歴史をたどっていけばいい。そもそも、人間という種はあっという間に絶滅してしまうだろう。生物史を勉強していれば明らかなことだ。そして、地球は太陽に飲まれてしまう。天文学を学ぶまでもなく明瞭なことだ。そして、宇宙は凍り付く。現代物理学はそう推測している。

 無駄だよ、無理なんだ。大きなものに身を寄せて、その身を不死と思い込むなんてことは。無意味で無価値。僕やあなたがこの場で即座に死のうが、この世で最も影響力の高い人間と低い人間が入れ替わろうが、この瞬間に人類が死滅しようが、なにも関係はない。僕たちの行動にはすべからく意味がない。巨視的には、全く虚無に等しい。そんな事実を前にして、どうして、受け継がれることに希望を見出すというのか。峻厳たる物理法則は、あらゆる可能性を規定してしまう。

 不可能だと知り、その立ち位置を嘆こうじゃないか。ああ、なんて哀しく、滑稽で、無様な悲喜劇なのだろうと。そうやって、その無意味さを自覚することだけが、この高度に発達した知性ができることなんだから。今日もまた、ただあるだけの一日が終わる。明日もまた、ただあるだけの一日が訪れる。