自己絶対感

 自己肯定感は高くない方だと思っている。人様に誇れるような技術や能力があるわけではないし、才能がないのに努力もしない。ナルシストでもない。自分の容姿なんか大嫌いだし、嫌いすぎて整形なんて候補にも挙がらない。トゥーフェイスぐらいにならないと、この嫌悪感は消えそうにないから。ゆえに髪型や服装にも興味がない。そもそも、言ってしまえば人間という動物の形はかなり気持ち悪いものだと思う。みんな、一切のバイアスを解除して、裸の自分を鏡で見てみればいい。どんな奇妙な動物もなかなか勝てない気持ち悪さを持った動物が、そこにはいるから。でも、自己否定はしないし、他人からの視線もあまり気にならない。(書いていて思ったんだけれど、ナルシストってその実、他人の視線をめっちゃ気にするからかっこつけているのでは?)なぜかと思えば、一種、諦めに近いような感覚があるからだと思った。

 何を嘆こうが、歓喜しようが、自分は自分である。絶対に他者とは代替が効かない。親や子供、配偶者や友人、相棒ですら、変わることはあるし、代替は、その実、存在すると思っている。しかし、自分だけはそうはいかない。自分が死ねば、死んでしまう。他人はいくら死んでも、自分は死なない。絶対的な違いがある。それを前にして、他者を気にしたり、自分以外から生まれる集団的な理想や想定と比較することに、どんな意味があるのだろうか。

 いや、確かに、この考えは間違っている。そんな自己中心的な人間ばかりになれば、この社会は破綻してしまうだろう。でも、だから何だというのだ。それにすら気付かない人間が多数を占めているし、なんなら、社会が破綻してもいいじゃないか。人生は長いんだ。そんな時期があっても、楽しそうだ。

 自分の性質は、自分の意識は、それは言い訳などでは全くないのだが、ただの事実として、物理的に定まってしまっている。オートマ車に乗っているのに、マニュアルでないことに文句を言う人間がいるだろうか。物理的に自分を変えなければ、自分は変わらないし、それを変えようとする意志が発生するかどうかも物理的に決まっている。ある意味では、生まれた時点で決まっていることも多いのだ。少なくとも、自分の意志なんて曖昧なものではどうしようもないものが。

 諦めてしまおう。自分なんて物体はなるようにしかならないのだから。でも、それは自分という現象を再生する、自分にとってだけは、唯一無二の物体なので、大事にはしよう。