実力の評価の虚構性

 この間、ゲームデザイナーさんと話していた時に、自分の実力を認めさせてやりたくて、(心の中で、という意味だと思うが)対立している他のデザイナーさんたちよりも優れたゲームが作れるということを証明したい、というような(曲解しているかも)ことを言っていた。そういう気持ちはないんですか? と聞かれたんだけれど、そういう気持ちはないなぁとなった。一応、全てを犠牲にしてでも、完璧に限りなく近く、面白すぎて人類を滅ぼすような作品が創りたい、とは言ったが、欲望が綺麗らしい。

 なんというか、自分の実力、認めてもらう必要なくないですか? その気持ちは、自分以外の皆が死んだ時、どこへ向かうのだろう、といつも考える。僕が変なのか。実力があるのに認められずに死んでいって、ともすればまだ認められていない人々って山のようにいると思うんですよね。その逆もしかりで。つまり、そういう、時流とか、政治とか、そういうものに認められたいって、意味がないと感じてしまう。運とかコネで決まっちゃわない? 実力が関連していないから、認められても認められなくても、実力に対する評価が有効にならない。逆に、褒められたいなら、ボランティアでもすればいいじゃん、ってなってしまう。結果として、実力を認められる、という行為の本質は存在しない。虚無だ。

 そもそも、皆、勘違いしていると思うんだけれど、物理量ですら、真値は測れないんですよ。ある物理量は無限に精度を高められるわけだし、厳密に言えば、変化しているわけだし、測定という行為そのものが、物理量に影響を与える。その物理量よりも遥かに複雑な創作物が評価(測定)できると思いますか? そんなん無理に決まってんだろ。だから、統計という簡単で便利で、しかし、問題が山盛りな手法を使う。でも、そもそも、それが有効になるほど母数が集められることなんて、ほとんどない。その上でそれを生み出した創作者の実力なんて、評価できるはずもない。そんな意味のないことに気を配る価値なんてない。

 そうじゃなくて、絶対的な真理、形而上への挑戦というのが、エンターテインメントの本質だと思うし、概念で戦っているので、時世の評価なんて、何の意味も持たないというか、そういう気持ちが一番近いのかもしれない。やっぱり、本質を考える必要がある。本質的なことでなければ、代替が可能なのだから。