生きる理由

 僕はよく、どうでもいいのなら、どうして今日死なないのかと問う。明日死ぬのも、数十年後に死ぬのも、何も変わらないというのなら、どうして、今すぐに死なないのかと思ってしまう癖がある。けれど、本当は逆のことが言えるはずで。

 変わらないのなら、数十年後に死んでもいいわけだし、逆に昨日は生きていたのに、なぜ、今日死ぬのかという話になってくる。なにか、自分にとって区切りの良い何かがない限り、どうして、という質問に答えることができない。しかし、この問いに対して、本質的に意味のない言葉で返答するのは馬鹿らしい。例えば、今日が誰の命日とか、何十歳になったから、なんていうのは、ただ、誰かが定義した意味のない年月とかいう概念に囚われていて、盲目的になっているだけだし、何か病気が判明したとしても、その病気という定義自体は人間が作っただけであって、例えば、癌細胞なんかは日々生まれていて、それが自然消滅しなかった段階を病気としているだけでしかない。現実は渾然一体とした混沌的な物理演算の結果でしかないのだから、それに明確な区切りを与えるのは、人間の定義でしかありえないのだ。

 だからきっと、僕は漫然とした意識の中、ただ惰性で生きてしまうのだろう。一度でも呼吸を始めたのなら、それを自ら止めるには、それに足る理由が必要だと思ってしまうから。屁理屈屋の本質はしばらく変わりそうもない。