帰納法的な思考が楽しい

 複雑に思えるものに、シンプルな法則が隠れている物が好きだ。ここでいう複雑性というのは、一種の外見的な芳醇さを指す。つまり、表面がシンプルのように見えるが、そこから演繹的に複雑さが広がっていくというものは好きではない。ボードゲームで言えば、将棋とかのアブストラクトゲームのようなものはあまり興味がないのだ。シンプルなルールから、多様な盤面が生まれるようなゲーム。そうではなくて、もともとが複雑なように見えるけれど、その実、シンプルな要素が絡まって複雑に見えるだけというものが好きなのだ。物理現象とか。僕がボードゲームや生物が好きなのもそれが原因だ。乱雑さの中なら、その本質を取り出す作業に面白みを覚えているのだろう。

 一方、この日常の貧困さと言ったら。音楽が4分でもたらすような世界の広がりを持っているだろうか。OP映像やトレーラーが見せる期待感や、物語の予感のカケラでも落ちているというのか。とにかく日常には情報がない。希釈しまくって透明になってしまったカルピスのようだ。一年分を圧縮しても、1分30秒にも満たない。こんなところで息をしていたら、飢えて渇いてしまう。こんな世界で生きろ、なんて言われても。どこか、面白さを感じられる複雑さを持った日々があるのだろうか。それとも、ないのか。ここには無いと早々に諦めてしまって、ここではないところに求め続けるのがいいような気はしている。だとすれば、ここにいる肉体としての僕は何を何していけばいいのだろう。どうせ、拷問のような退屈さに埋められる日常しかないというのに。